創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(70)

 

真尋が住むマンションのある最寄駅には、午後三時過ぎに着いた。

大学から電車で一本のその駅は、学生が多く暮らすのか私服を着た若者が目につく。

美和は改札を出て、駅前に設置されていた周辺地図に向かった。手帳を出して、真尋のマンションの住所と地図とを見比べる。真由美が言ったように、駅前商店街を通り抜けるように道をまっすぐ進めば15分ほどで着けそうだった。手帳をバッグにしまい、美和は踏みしめるように目の前の道路を前に歩き出した。

商店街を抜け、そのまままっすぐ歩いていると、右手に12階建ての建物が見えてきた。

単身者向けのワンルームマンションで、アンバランスなくらい縦に細長い建物だった。建物は狭い敷地の中に建てられている。この様子では一フロアにそれほど多くの部屋はないかもしれない。あっても4部屋か5部屋くらいだろう。その建物のアンバランスさが、住民であった真尋の心のアンバランスさを暗示しているかのようで嫌な不吉さを感じた。美和はそのマンションの入り口に辿り着くと、念のため入り口の横に掲示されているマンション名を確認する。真尋の住んでいたマンションに間違いなかった。

入り口からマンションの中に入ると、そこにさらに扉が一つあった。

扉の前に立ち、美和はバッグの中から手帳を取り出す。そして手帳に挟み込んだメモ用紙に書かれている暗証番号を確認した。慎重にその番号を扉横の機器に入力すると、扉は音もなく左右に開いた。どこか後ろめたい思いを引きずるようにして、美和は中に入っていった。

エレベーターで11階まで上がり、真尋の部屋の前に歩いていく。そのドアの前まで来ると美和は立ち止まり、しばらく目の前の閉ざされたドアを見つめていた。

そのドアを開けるのが何だか怖かった。

このドアの向こう側に、何か恐ろしいものが待ち受けているのではないのか。そんな想像をどうしても消し去ることができなかった。このドアを一回開けてしまうと、自分はもう後戻りができないのではないのか。その恐怖が美和の体を縛り付けた。

かといって、そのドアの前にいつまでも立ち続けているわけにもいかなかった。

部屋の中に誰もいないことを確認するため、とりあえずドア横のチャイムのボタンを押してみる。

部屋の中にピンポーンという音が響くのが微かに聞こえた。その音が消えると、もう部屋の内側から物音一つ聞こえなかった。どうやら部屋のなかには誰もいないらしい。

美和はカバンの中から財布を取り出し、その中に入れておいた真尋の部屋の合鍵を取り出した。そして鍵穴にその鍵を差し込み回そうとした。

「あれ?」

左回りで回そうとしても、その鍵は回らない。

何度か試してみてそれでも回らないと分かると、美和は鍵を引き抜き、ドアノブに手を掛けて手前側に引いてみた。するとドアはキーという小さな音を立てて開いた。

鍵は初めから掛けられていなかった。

一週間前に真尋が救急車で運ばれた時のままなのだろうか。

この部屋の住人である真尋が運び込まれたのだから、この部屋を出た後に鍵をかける人がいなかったのも、ある意味では当たり前だった。さすがに、大学の友人である真由美が、この部屋の鍵を閉めてから救急車に同伴するということもなかったのだろう。不動産会社でもなければこの鍵を閉める人はいないはず。

そのとき、ふと、

“真尋が救急車で運ばれたことは、不動産会社に連絡は行っているのだろうか”

ということが気になった。

これまで不動産会社から美和に何の連絡もない。不動産会社が住民の自殺未遂を知ったら、その保証人である美和に何かしらの連絡があってもいいはず。

それがないということは、そもそもとして不動産会社には今回の件は連絡がいっていないのかもしれない。

いつかは、美和の方から不動産会社に連絡をしなければならないだろう。

救急車で運び込まれた原因が“自殺未遂”なので、不動産会社は、真尋のこの部屋からの退去を要求するかもしれない。その時のことを想像すると、暗澹たる思いに襲われる。だけど今はそれに構っている時でも場合でもなかった。

美和は気を取り直す様に、一度深呼吸をする。

そしてドアノブに掛けた手に力を込めた。

ドアは美和の前で開かれていった。

 

 

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閉じ込められた部屋(69)

 

真尋が一人暮らしを始めた際、

「何かあった時のために渡しておくね」

と真尋に言われて、美和は合鍵を一つ受け取っていた。

その時に、マンションの入り口のオートロックについても、その暗証番号を書いたメモを受け取っていた。確か合鍵は物入れの一番上の引き出しに入れ、そして暗証番号のメモは手帳に挟み込んでいたはず。

真尋が一人暮らしを始めて約二年が経っていたが、それまで美和は真尋の部屋に行ったことは一度もない。

真尋の部屋に行かなければならないような用事なんてなかったし、何か連絡する必要に迫られた場合はメッセージアプリや電話で済ませていた。そもそもとしてそのような場合すら、この2年間で数えるほどしかなかった。

真尋はどのような場所で暮らしているのか。

あのようなことがあった真尋が、ちゃんと一人で暮らしていけるのか。

気にはなっていた。

だけど、美和は真尋に尋ねたりはしなかった。あの夜のことで真尋に引け目を感じていたのもあったし、心のどこかでは、真尋は母親である自分とできるだけ離れて生きたほうがいいのかもしれない、と思っていた。

「私がそばにいると、私が何かのきっかけになって、真尋があの夜のことを思い出してしまうかもしれない」

そんな危惧をいつだって抱いていた。

だから、美和の方から、

「真尋の部屋に行ってもいい?」

と言ったことなんて一度だってなかった。

そして同じように、真尋の方から美和に、

「お母さん、今日、うちに来ない?」

と誘うこともなかった。

警察を名乗る男が帰っていった後、美和は部屋の中に戻り、物入れの一番上の引き出しを開けて中を覗いた。

真尋からもらった時のまま、鍵が裸で入れられていた。その鍵を手に取って眺める。なんの変哲もない鍵だった。

美和は少し考える。

今日、このまま真尋の面会に行くべきだろうか。それとも面会を取りやめて、その代わりに真尋の部屋に行くべきだろうか。

考えるまでもなかった。美和の中ではすでに答えが出ていた。

 

ごめん・・・。

真尋・・・。

今日は行けない・・・。

 

心の中で真尋に謝る。

そして先ほどまでしていた外出の準備の続きを始める。最後に机の上に置かれた手帳を手に取って中を開いた。手帳の裏表紙に挟み込まれている、真尋からもらった暗証番号のメモと、その暗証番号の下に同じように書き込まれている真尋の部屋の住所を確認して手帳を閉じた。

 

 

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閉じ込められた部屋(68)

 

男は手元の手帳に何やら書き込んだ後に、また美和を見遣る。ひどく冷たい目だった。

「一点、確認させてください」

「・・・はい」

「お母様は、真尋さんの自殺未遂の理由について、何か心当たりはありますか?」

美和は男から視線を外して、足元を見る。そのまま視線を合わせていると心を見透かされてしまいそうな、そんな怖さを感じた。

真尋が自殺未遂をした理由。

美和には、14年前のあの夜のことしか思い当たることはなかった。

だけど、そのことを警察に告げるということは、真尋の、そして美和自身の罪を告白するということでもあった。

言えるわけがなかった。

「私も、真尋がなぜあのようなことをしたのか、分からないです・・・」

「たとえば、真尋さんが誰か男性とお付き合いしていたとか、最近失恋したというような話をお聞きになったことはありますか?」

「いえ、ありません」

「・・・そうですか」

男は手帳越しに、美和に視線を向ける。

「ところで、お母様は、真尋さんが病院に運び込まれた後に、真尋さんの部屋に行かれましたか」

「いえ。行っていません」

「なぜ」

「なぜって・・・。この一週間は真尋が病院に入院していて、そして真尋は全く目を覚まさなくて・・・。真尋の部屋に行っているような余裕はなかったものですから」

「真尋さんの部屋に、真尋さんが自殺未遂した理由について何か手掛かりになるようなものがあるとは考えなかったのですか」

「手掛かり・・・ですか」

「そうです。たとえば、真尋さんの遺書が部屋に残されているとか」

その男の言葉に、美和ははっとした。

そうだ。確かに、真尋は自分の部屋に遺書を残しているかもしれない。

もちろん衝動的に睡眠薬を過剰摂取したということも考えられる。当然その場合は遺書なんて書いてないだろう。だけど、美和には衝動的に自殺を図る真尋の姿が想像できなかった。何か強い理由があり、強い動機があって自分の行動を選択する。美和にとって真尋は、そのような存在だった。そのような存在であるからこそ、真尋が6歳の時のあの夜が起こってしまったのだと信じていた。

なぜ、そのことに今まで思い至らなかったのだろうか。

「まあ、いいでしょう」

男は手帳を閉じて、内ポケットにしまう。

「N大学附属病院からは、真尋さんが過剰摂取したのは睡眠薬に間違いないとの話は聞かせてもらっているし、真尋さんが通っていた心療内科にも話を聞いて裏が取れています。違法薬物の摂取や、何か犯罪に巻き込まれたということでもないでしょう」

男は追加で何点か美和に質問した後、

「お忙しい中、ありがとうございました」

という言葉を残して帰っていった。

美和の前でドアが閉じられていく。

美和は、そのドアを見るともなく見つめていた。そしてそのまましばらく玄関に立ち尽くしていた。頭の中では、先ほどの男が口にした言葉を思い出していた。

“真尋さんの遺書が部屋に残されているとか“

男はそのように口にした。

もし本当に真尋の部屋に遺書が残されているのだとしたら、真尋がこのようなことをした理由も分かるかもしれない。それが分かれば、目を覚ますことのない真尋に何か手を差し伸べることができるのかもしれない。

美和は、そんな微かな希望を必死になって信じようとした。

 

そうだ・・・。

真尋の部屋に行ってみよう・・・。

私は、真尋の部屋に行かなければならない・・・。

行かなければならないんだ・・・。

 

 

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閉じ込められた部屋(67)

 

 

ピンポーン。

突然チャイムの音が鳴った。

「はい」

ドアの外に声をかけながら、美和はドアノブを握る。小さくドアを開けると、玄関先に50代くらいのスーツを着た一人の男性が立っていた。

真尋が入院してから一週間が経っていた。

依然として真尋は眠り続けていた。この一週間、美和は面会のために毎日病院に通っていた。そのチャイムが鳴ったのは、午後一時すぎの自宅で、美和がちょうど外出のための準備をしていた時だった。

「警察のものですが」

男はスーツの内ポケットから黒い手帳のようなものを取り出して、美和の前に差し出した。上下に開くようなタイプの手帳となっていて、下側に「警視庁」と刻まれた記章が取り付けられていて、上側に写真と名前が入ったカードが収められている。その男はすぐにその手帳を折りたたんで元の内ポケットにしまったので、名前までは読むことができなかった。

「真尋さんのことで、少しお話をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」

「真尋の、ですか?」

突然やってきた警察を名乗る男の口から「真尋」の名前が出たことに、訝しく思いながらもその男を観察する。

「はい。N大学附属病院から警察に連絡が入りまして、真尋さんが自殺未遂をしたと聞いています。それに関する事情聴取をさせていただきたいのです」

「・・・自殺未遂に、事情聴取が必要なのですか?」

「はい。事件性の有無などについて警察としても確認する必要があるので、お話をお聞かせいただきたいのです。・・・失礼ですが、真尋さんのお母様ですか?」

「はい、真尋の母親の、佐藤美和といいます」

「娘さんが大変な時に恐縮ですが、短時間で終わるのでご協力をお願いいたします」

「わかりました」

美和は半分だけ開けていたドアを全て開き、その男に面と向かった。家の中にお入りくださいとは言わなかった。警察を名乗ったとはいえ、見知らぬ男を家の中に入れることに抵抗があったからだった。その男も美和のその態度に特に頓着することもなく、玄関先で言葉を続けた。

「ありがとうございます」

男は先ほどの警察手帳とは別の手帳を取り出す。そしてそれを開いて中を確認してから、

「真尋さんがN大学附属病院に運び込まれたのは4月7日の午後6時頃と病院からは聞いています。その7日の朝か、あるいは前日の6日の夜に睡眠薬を過剰摂取したようです。4月6日の真尋さんの行動について知っている範囲でいいので教えていただけますか?」

と美和に話した。

「真尋は一人暮らしをしていて、私とは別に暮らしているので詳しくは分かりません。ですが、真尋の大学の友人の真由美さんという方から聞いた話でいいのであれば・・・」

「はい、構いません」

「そうですか・・・」

美和は、夜の病院の待合室で真由美から聞いた話を簡単に話した。

「前日の6日、真由美さんと一緒に大学から帰る時の真尋は、いつもと変わらない様子だったそうです」

「では、6日、真尋さんが大学から帰った後に、真尋さんに何かが起きたということですね」

考えてみればそうだった。

それまでの美和は、いつまでも目を覚さない真尋のことで頭がいっぱいで、そのことに思いが至っていなかった。真由美の言うとおり、6日の大学帰りまでは真尋に変わったところがなかったのだとしたら、そこから睡眠薬を過剰摂取するまでの間に、真尋自身に何か重大な出来事があったということになる。自分の死を望まずにはいられないくらい重大な何かが。

その日に、真尋に何があったのだろうか。

 

 

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閉じ込められた部屋(66)

 

美和は、サイドボードの上に置かれたバーバリウムを見つめていた。

ピンク色のバラが透明な液体の中に浮かんでいる。

そこに、窓から差し込む日差しが当たり、きらきらと光っていた。

そのバーバリウムは、昨日、病院からの帰りに美和がデパートで買ってきたものだった。そしてつい先ほど、真尋が眠るベッドの横の、サイドボードの上に置いたのだ。これ一つあるだけで、病室に色が生まれたように感じた。

4月10日の午前中の病室は、まるで時間が止まったかのように緩やかに時間が流れていた。

美和は、バーバリウムから、ベッドの上の真尋の顔に視線を移す。4月7日の夜に病院に運び込まれた真尋は、青白い顔のままその日も眠り続けていた。

美和は、ふうと小さく息を吐く。

昨日森田医師から聞かされた言葉を思い出す。

 

「真尋さんは何らかの理由で、自分で薬物を過剰摂取しました。もしかしたら、真尋さんがオーバードーズをした理由と何か関係があるのかもしれません」

 

真尋が自殺を図った理由。

美和には、真尋が6歳だった、あの夜のことしか思い当たるものはない。

でも、今になってなぜ。

そのことが不思議だった。

真尋はあの夜のことを記憶の底に封印するように生きていた。真尋の心の中で何が起こっていたのか、美和には分からない。いつしか、6歳以前の記憶がまるで無くなってしまったかのように振る舞い始めた真尋を見て、美和は特に何も言わなかった。

真尋がその記憶を封印するのであれば、それでも構わないと思った。それが真尋がこの世界を生き抜くために見出した方法なら、美和自身もその真尋が作り出した世界の中で生きようと思った。真尋のために。それが、美和自身の真尋に対する贖罪なのだと信じた。

 

私は、6歳の真尋を見捨てたのだ・・・。

 

あの夜が来るまで、父親から虐待を受けている真尋に救いの手を差し伸べることはしなかった。見て見ぬふりをし続けた。この壊れかけた家族を守るためには、そうするしかない。必死になって自分自身にそう言い聞かせていた。見て見ぬふりをすることによって、その現実がいつか本当に消え去ってくれる。そう信じた。

美和は自嘲を口に微かに浮かべて、首を小さく横に振る。

 

違う・・・。

私が守りたかったのは家族ではない・・・。

私が守りたかったのは、私自身だ・・・。

私はただ、私自身の未来が闇に閉ざされるのが怖かっただけだ・・・。

私はただ、真尋を見捨てることによって私自身を守りたかっただけだ・・・。

そんな卑怯者だったんだ・・・。

 

それが6歳の真尋をどれだけ傷つけたのか。

6歳の真尋をどれだけ絶望させたのか。

美和には分からなかった。

家族を、そして何よりも自分自身を守ることに精一杯だったその時の美和は、真尋の絶望に気づいてあげることはできなかった。真尋を絶望から救い出してあげることができなかった。

そしてあの夜がやってきた。

「どうして、私を助けてくれなかったの?」

「どうして、私を見殺しにしたの?」

あの夜、そのような叫びながら泣きじゃくる真尋を見て、美和は初めて真尋の中の絶望に気づいた。そして、真尋をこの絶望から救い出してあげなければならないと、強く思った。そこに理由なんてなかった。

美和は何かに追い立てられるように、押し入れの奥からスーツケースを引っ張り出していた。

だけど、全てが手遅れだった。もう時間は巻き戻すことはできなかった。

あの夜に、真尋も、そして美和自身も罪を抱えて生きることを運命づけられたのだ。

 

「ねえ、真尋・・・」

美和は、ベッドの上で眠り続けている真尋に言葉をかける。

「あの夜、私も、必死になってあなたを守ろうとしたんだよ・・・」

真尋は答えない。美和は構わず言葉を続ける。

「だけど、私は、あなたを守ることなんてできていなかったのかもしれない・・・」

「・・・」

「だって、結局、このようなことになってしまったのだから・・・」

「・・・」

「真尋・・・」

「・・・」

「20歳のあなたは、何に絶望してしまったの?」

「・・・」

「6歳のあなたがこの世界に絶望したように、20歳のあなたも、同じようにこの世界に絶望してしまったの?」

「・・・」

真尋は依然として、青白い顔のまま眠り続けていた。

 

 

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