創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(65)

 

美和の前に座る森田医師は、やはりひどく疲れた顔をしていた。

元々このような顔なのだろうか。

森田医師の顔を見て、そのような場違いなことを美和は思った。

A03診察室。その小さな部屋の中で美和は森田医師と対面するようにして座っていた。

森田医師は徐に口を開く。

「看護師から聞きました。真尋さんがいつ目覚めるのかをお知りになりたいと」

「・・・はい」

美和は首を小さく縦に振った。

「一昨日、先生は、真尋は次の日には目覚めるでしょう、とおっしゃいました。ですが、今日になっても真尋は目覚めていません。この二日間、指一本動かしているのも見ていません」

森田医師は机の上に置かれたディスプレイに視線を向ける。そして美和の方を見ずに、

「バイタルは正常には戻っています」

と言った。

「・・・では、なぜ、真尋は目を覚まさないのでしょうか」

「・・・分かりません」

「え?」

「・・・原因は分からないのです」

森田医師は渋い表情を浮かべながら答える。

「お母様は、こんなに医学が進んだ現代なのに、とお思いになるかもしれませんが、現代でも私たちが分かっているのはまだまだごく一部に過ぎないのです。・・・医学的には真尋さんの体は正常に戻っています。ですが、何かが邪魔をして真尋さんの覚醒を遮っているようです」

「何か、とは・・・」

森田医師は少し考えるような素振りを見せた。

「たとえば、精神的なものが原因なのかもしれません」

「精神的・・・」

「真尋さんは何らかの理由で、自分で薬物を過剰摂取しました。もしかしたら、真尋さんがオーバードーズをした理由と何か関係があるのかもしれません」

「・・・」

「お母様は、真尋さんがオーバードーズをした理由について、何か心当たりはありますでしょうか?」

真尋が自殺を図った理由。

考えるまでもなかった。

美和には、真尋が6歳だったあの夜のことしか思い浮かばなかった。だけど、あの夜のことを、今ここで口にできるわけがなかった。

美和は小さな声で、

「・・・分かりません」

と答えることしかできなかった。

 

 

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閉じ込められた部屋(64)

 

結局、その日に真尋が目を覚ますことはなかった。

夕方に一度病室を訪れた森田医師は、

「明日まで様子を見てみましょう」

と美和に一言告げた後、病室を出ていった。

N大学附属病院では面会時間は18時までと決められている。17時半が訪れると、美和は、いまだに眠り続けている真尋に

「真尋・・・、明日も来るね」

と声をかけてからその病室を後にした。

 

美和はその日は埼玉県の自宅に戻った。

疲れ果てた体を引きずるようにして電車を乗り継ぎ、ようやく自分の家の前にたどり着く。

「ただいま」

家の中には誰もいないと分かっていても、いつもの習慣で小さく声に出してからドアを開けた。着ていた春物のコートをハンガーにかけ、とりあえず水を飲もうと台所に向かった。

シンクに視線を向けると、洗いかけの食器がそのまま置きっぱなしになっていた。

「そうか・・・」

昨日の夜、突然病院から電話がかかってきて、そして洗い物もほっぽり出して病院に向かったのだ。あれからまだ一日しか経っていないのだ。洗いかけの食器を見て、そのことを今更ながら思い出した。時間的には一日しか経っていないのだけど、もっと長い時間がその間には挟み込まれているように感じる。あの電話がかかってくる前と、かかってきた後。同じ世界のはずなのに、美和の目から見える世界は全く別物のようだった。

洗いかけの食器は、その場で洗い直した。

その日は簡単に夕食を済ませ、夜21時過ぎには就寝した。

明日も病院に行く予定だった。この二日間、心身ともに疲れ果てていたので、少しでも早く休みたかった。

 

次の日も、外は穏やかに晴れていた。

美和は朝起きると、早速外出の準備を始める。

真尋が入院するN大学附属病院の面会時間は14時から18時までとなっていたのだけど、美和は病院に特別に許可を取り、付き添いという形で朝9時からの面会が許されていた。

病院には9時過ぎに着いた。

そして前日と同じように警備室で面会の手続きをして401号室に向かう。401号室の前に辿り着いてそのドアの横を見ると、ドアの横に張り出されている入院患者の氏名は「佐藤真尋」一人だけのままだった。

ドアを静かに開けて、中に入る。

前日に見た光景と全く同じ光景が、まるでコピーされたかのように美和の前に広がっていた。

そしてその日も、真尋は前日と全く同じ姿勢のまま、指一本動かすこともなく眠り続けていた。

午後の早い時間に一度、看護師が病室を訪れた。

病院から突然電話があった夜、美和を病院の待合室から真尋の元まで連れていってくれた看護師だった。その看護師は真尋のベッドの横の計器の数値を確認し、手持ちのボードの上の紙に何やら書き出していた。それが終わると美和に、

「失礼します」

と声をかけて、その部屋を後にしようとした。

「あの、すみません」

美和は、その看護師を呼び止めた。

「はい、何でしょうか」

「真尋のことなのですが、一昨日の夜は、森田先生には“明日には目覚めるでしょう”と言われたのですが、まだ目覚めません。真尋は、いつ目覚めるのでしょうか」

看護師は明らかに困った表情を顔に浮かべていた。

「私からは、何とも・・・」

「それでは、森田先生とまたお話をさせていただけないでしょうか」

「・・・分かりました。森田医師に確認してみます」

看護師は一度頭を下げて、病室を出ていった。

そして30分ほどして再び病室を訪れ、美和に、

「森田医師からも話があるとのことなので、本日のお帰りの際、17時頃にA03診察室にお越しください」

と告げた。

 

 

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閉じ込められた部屋(63)

 

401号室の前に着く。

ドアの横の入院患者の表記を見ると、「佐藤真尋」しか書かれていない。

真尋一人の部屋だろうか。

念の為、ドアを一度ノックしてみる。

中からは何の返事も返ってこない。

美和は、

「失礼します」

と小さな声で言ってから、そのドアを開けた。

部屋には四つのベッドがあって、三つのベッドの上には誰も寝ていない。窓際のベッドの一つに、真尋が昨日の夜見た姿のままで寝ていた。

窓からは、白いカーテンの隙間を縫うようにして春の穏やかな日差しが部屋の中に差し込んでいた。

美和は音を立てず、真尋が寝るベッドに近づく。

真尋の顔を見るのが怖かった。昨日見た、死人のような青白い顔がどうしても記憶の中から拭い去ることができなかった。それを再び見てしまうのではないのか。そう思えて仕方がなかった。

「真尋・・・」

声をかける。当然のように真尋から返事が返ってくることはない。

恐る恐る真尋の顔に視線を向ける。

真尋の顔には相変わらず人工呼吸器が取り付けられていた。

だけど、その奥にある顔は、少しだけ赤みが刺しているように美和には見えた。

ほっとしたような気持ちで一つ息を吐いてから、

「真尋・・・、おはよ・・・。今日も来たよ」

と眠り続けている真尋に言葉をかけた。

ベッドの横には面会者が座ることができるようにということなのか、一脚の丸椅子が置かれていた。

美和は、持ってきた自分の鞄をベッドの脇に置いてから、その丸椅子に座った。

途端に手持ち無沙汰になった美和は病室の中を見るともなく見る。

部屋の中に置かれているのは入院患者の荷物を入れるための小さな物入れと、ベッドの横のサイドボードくらいだった。調度品のようなものは特に置かれておらず、ひどく殺風景だった。もともとは患者を治療することを目的にした場所なので、ある意味ではそれも当たり前なのかもしれない。

それまであまり病院というものに縁がなかった美和は、病院とはこんなにも寂しい場所なのかと改めて感じた。

そのまま視線を窓の外に向ける。

窓からは、先ほど病院に来る途中その下を通ってきた満開の桜の木が見えた。

美和はしばらく、その桜の木を見ていた。

真尋の顔を見続けるのが辛かった。

そしてその桜の木を見つめながら、昨夜の森田医師の言葉を思い出していた。

森田医師は、

「明日には目覚めると思います」

と言った。

そしてその後に、

「真尋さんが目覚めた時に、真尋さんは辛い現実に直面することになります。ぜひ、お母様が支えてあげてください」

とも言った。

 

真尋が目を覚ました時、私は真尋にどんな言葉をかければいいのだろうか・・・。

どんな言葉をかけられるというのだろうか・・・。

 

窓から見える桜の花を見つめながら、その答えをずっと探していた。

 

 

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閉じ込められた部屋(62)

 

その日は夜も遅いということもあって、病院に近くのホテルを紹介してもらって美和はそこに宿泊することにした。

次の日も、朝から真尋の面会に病院に訪れようと考えていた。

病院の受付でホテルの電話番号を聞く。

美和が自分の携帯電話でホテルに電話をかけると、

「はい、Aホテルです」

という若い女性従業員の声が受話器から聞こえた。

「一人なのですが、これから行っても泊まることはできますか」

と尋ねると、その電話先の女性は、何かを確認するような間を少しとった後に、

「おひとりさまですね。はい、大丈夫です」

と答えた。

病院の受付で地図を見せてもらいホテルまでの道順を確認すると、病院から1キロくらいの距離に位置していて、歩いても15分くらいでそのホテルに着けそうだった。

そのまま受付で真尋の入院に関する手続きをいくつかした後に、美和は病院の玄関から外に出た。

すでに時刻は午前0時を回っていた。

本当に長い夜だった。

深夜の東京の街ではまだ多くの車が行き交っている中、美和は教えてもらった道順に沿って一人歩く。

歩きながら、先ほど見た真尋の青白い顔が、美和の後ろからずっとついてきているような感覚をどうしても拭い去ることはできなかった。

 

次の日、4月8日は朝から雲一つ無く晴れ渡っていた。

職場にはホテルの部屋から電話をかけ、娘が入院していること、その面会のため数日休むことを簡単に説明した。

ホテルのロビーでチェックアウトの手続きをして建物の外に出ると、朝の東京の街は春の穏やかな日差しの中に佇んでいた。

美和は右手で目の上に庇を作るようにして日の光を避け、目の前の世界を見る。その世界はあまりにも明るくて、昨日の夜、美和の目の前にあった世界と同じ世界だとは思えなかった。

美和は気を取り直して、昨夜歩いた同じ道をそのまま辿るようにして歩道を歩き出した。

突き当たりのT字路を右に曲がる。

「あ・・・」

美和は思わず声を漏らしていた。

美和の前に現れた街路樹は、綺麗なピンク色に染まっていた。

「こんなところに、桜があったんだ・・・」

昨日の夜は全く気づかなかった。

夜だったからだろうか。

ずっと、俯いて歩いていたからだろうか。

いや、きっと、目には桜は映っていた。だけど、その心は真尋のことでいっぱいで、この桜を認識する余裕なんてなかったからかもしれない。

そんなことを一人思いながら、桜の満開の下、美和は歩いた。

病院に着くと、警備室を案内されそこで面会の手続きを行う。

そのとき、真尋は集中治療室から一般病棟に移されたことを聞いた。真尋の病室の場所を聞くと、4階の401号室とのことだった。

 

 

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閉じ込められた部屋(61)

 

「真尋の手に触れても大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫です。ぜひ、手を握ってあげてください」

看護師は事務的な口調で答える。

美和はベッドの上に投げ出された真尋の右手に触れる。そしてそのままその手を強く握った。真尋の右手は氷のように冷たかった。

「なんで・・・、なんでこんなことに・・・」

美和の言葉は、誰にも受け止められることもなく空気の中に霧散していく。

美和は看護師を振り返った。

「真尋はどのような具合なのでしょうか」

「そのことについてなのですが、先生が真尋さんのお母様にお話ししたいことがあるとのことです。診察室まで来てもらってもいいですか?」

「・・・わかりました」

美和は真尋の右手から手を離した。

看護師は、美和を同じ3階にある一室の前に案内した。

ドアは閉じられていて、そのドアの横に「A03診察室」という掲示が掲げられていた。

看護師はドアをノックし、ドアの内側に、

「森田先生、真尋さんのお母様をお連れしました」

と声をかけた。ドアの内側から、

「中に入ってもらってください」

という男性の声が聞こえた。

美和は、看護師の「どうぞお入りください」という言葉に促されるように、一言、

「失礼します」

という言葉を残して目の前のドアを開けた。

その診察室は8畳くらいの大きさの小部屋となっていて、右手側にベッドが、そして左手側にパソコンのディスプレイが載せられた机があった。ベッドは空だった。そして机の前にはディスプレイを睨むように観ている白衣姿の中年男性が座っていた。

その男性は美和の方に顔を向け、

「こちらにお座りください」

と机の前に一つ置かれた丸椅子を左手で指し示した。

美和はもう一度、

「失礼します」

と小さな声で言ってから、その椅子に座った。

「私は、救命医の森田と申します」

男性は簡単に自己紹介した。その顔はやつれていて、ひどく疲れた表情をしていた。そして、少しの間を挟んで、

「お母様は、オーバードーズという言葉をご存知でしょうか」

と美和に言った。

オーバードーズ、ですか・・・。いえ、初めて聞く言葉です」

「そうですか・・・。オーバードーズとは薬の過剰摂取のことです」

「薬の、過剰摂取?」

「はい。オーバードーズは、簡単に入手できる咳止めや風邪薬の場合が多いのですが、時々病院で処方された薬を過剰摂取される方もいます。真尋さんの場合、病院で処方されていた睡眠薬を過剰摂取したようです」

その話は、真由美からすでに聞いていた。

美和が知りたかったのはその先だった。

真尋は助かるのかどうかを知りたかった。

「それで・・・、真尋は助かるのでしょうか」

「先ほど処置として、胃の中の洗浄を行っています。幸い、と言っていいのかどうかは分かりませんが、真尋さんはそれほど大量には睡眠薬を飲んでいなかったようです。明日には目覚めると思います」

「・・・ありがとうございます」

「ですが、お母様」

医師は楔を打ち込むかのように、そこで少しの間、言葉を止めた。

「大切なのは、なぜ真尋さんはオーバードーズをしたのか、ということです」

「・・・」

「真尋さんが目覚めた時に、真尋さんは辛い現実に直面することになります。ぜひ、お母様が支えてあげてください」

 

真尋を・・・、支える・・・。

一度、真尋を見捨ててしまった私に・・・、真尋を支えることなんてできるのだろうか・・・。

 

美和は、そのような思いが心の中から滲み出て広がっていくのを、どうしても止めることはできなかった。

 

 

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