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真尋の母親は“佐藤美和”という名前だった。
真尋は母子家庭だった。
自分の父親がいつから家にいなかったのか。物心ついた時には父親という存在はこの家の中にはいなかったし、幼い頃の真尋もそれを不自然なものとも感じなかった。母は色々な仕事を掛け持ちしていて、自分は保育園に預けられることも多かったのだけど、それでも夜、その保育園に母が迎えに来てくれるのが何よりも待ち遠しかったし、何よりも嬉しかった。保育園のドアに現れる母の笑顔を見るだけで、自分は幸せなのだと感じられた。
ただ、小学生になって、クラスメートが自分の父親なるものの話をするのを聞いて、父親という存在がこの世界にはあるのだということを知った。
「昨日、パパが、お小遣いくれたんだ」
クラスメートのそんな言葉を聞いて、真尋は不思議に感じた。
この世界には母親とは別に父親という存在がいて、そしてその父親は母親と同じように子供に幸せをくれるものなんだ。そんなことを新鮮な驚きとして知った。
学校の後は学童保育に預けられることもなく、真尋はまっすぐ家に帰って誰もいない家の鍵を開けて、母が帰るまで、その部屋でずっと一人で過ごしていた。クラスメートの中には学童保育に通っている子供もいたのだけど、真尋は通うことはなかった。大人になった真尋の視点から振り返ると、きっとその時の母には金銭的な余裕がなかったのだと思う。そのくらいの金額を家計から捻出するのも難しいくらい家にはいつだってお金はなかったし、また、母は相変わらずいくつかの仕事を掛け持ちしていていつだって家にいなかった。
クラスメートから父親のことについて聞いた日の夜、
「ただいま」
と少し疲れた顔にやつれた笑顔を浮かべて母が帰ってくると、真尋は母に、
「どうしてうちにはパパがいないの?」
と尋ねた。
母は半ば呆然としたような表情で、しばらく真尋の顔を見ていた。そしてその目に異様な光を帯びさせながら、
「どうしてそんなことを訊くの?」
と逆に真尋に問いかけてきた。真尋はその日、学校でクラスメートが父親の話をしたことを母に伝えた。母は、
「そう・・」
といってしばらく黙っていた。そして、
「真尋にはママがいるから、パパは必要ないでしょ・・・」
とびっくりするくらい冷たい声でつぶやいた。
真尋は、その時の母の表情、そしてその声を聞いて、自分の胸に、
“この家では、父親のことは訊いてはいけないんだ”
という思いを刻み込んだ。