創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(72)

 

「お母さん。

お母さんにとって、私はどのような娘だったのでしょうか。

一度は訊いてみたかったけど、お母さんの口からどんな言葉がこぼれるのか分からなくて、それを想像するのも怖くて、結局、一度も訊くことができなかった。

 

今、この手紙を、一人部屋の中で書いています。

ベッドの横の目覚まし時計の針は午前三時を指しています。このような手紙を書くことになるなんて、数時間前の私は想像すらしていなかった。昨日までの私であれば、きっと、この時間はいつものようにベッドの中で眠っていたのでしょう。だけど、私はどうしても今、この手紙をお母さんに向けて書かなければならないのです。

 

昨日の夜、つまり6日の夜、私は友人の真由美と大学帰りの電車に乗っていました。本当にいつもと変わらない夜でした。

真由美とはサークルの話とか、大学の授業の話とかしていた。何でもない日常の会話。そのような会話ができるということは別に何でもないことのように思っていたのですが、そのような会話ができるということは実はかけがえのないことだったのです。

今の私には、それが分かります。

私は自分の部屋の前に着くと、ドアの鍵を開けました。そして中に入って、ドアの鍵を閉めようと後ろを振り返りました。私の目の前には、今まさに閉じようとしているドアがありました。

別にその光景は真新しいものではなかったし、毎日のように見ている光景でした。見ている光景のはずでした。

だけど、その閉じられるドアを見た瞬間、私は指一本動かせなくなってしまったのです。

 

閉じられていくドア。

 

突然私は、ある光景を自分のこれまでの人生のどこかで見たことがあることを思い出したのです。

その光景にはお母さんがいました。

そしてお母さんは無言でスーツケースを引きずり、ドアの外に出て行きました。その閉められていくドアを私は絶望の中で見つめ続けていたのです。

 

なぜ、今までの私はそのことを忘れてしまっていたのだろう。

なぜ、忘れて今まで生きてしまっていたのだろう。

 

そんな思いが自分の中から込み上げてくるのを止めることはできませんでした。

それと同時に、なぜ近頃の自分が原因のわからない不安感に襲われるのか、そして眠れない夜を過ごしていたのか、その全てを理解したのです。

きっと、心の奥底に沈めていた記憶が顔をのぞかせ始めていたのだと思います。無意識の私は、その記憶から必死になって目を逸らそうとしていたのだけど、その記憶はあまりにも悲しくて、あまりにも怖くて、あまりにも希望がなくて、無意識の私ももう目を逸らすことができなくなっていたのだと思います。

 

私は半ば呆然としながら、ドアから視線を外し、後ろを振り返りました。

そこに見えた部屋は、私の部屋ではなかった。

私は、あの部屋の中にいたのです。幼い頃の私が暮らした、東京都K区のあの小さな部屋に。

目の前には父が立っていました。

そしてその父の前には、6歳の私が立っていました。

「これは“しつけ”なんだ」

父の言葉が、悲しいくらいの現実感を伴って、私の耳に聞こえた気がしました。

 

小学生の頃、お母さんに

「お父さんはどうしていないの?」

と言って困らせたよね。本当にごめんなさい。

 

全て、私がやったことだったんだね。

真実は、いつだってすぐそばにあったんだね。

 

それを忘れて生きられるわけなんてなかったのに。

それを忘れてまで生きようとしていた私は、ただの大馬鹿者だったんだ。

 

これから私がすることで、きっと今も、またお母さんを困らせているかもしれません。

だけど、最後のわがままだと思って、許してください。

 

真尋より」

 

 

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