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田代勇輝は、O街道をタクシーで走っていた。
時刻は午前0時を回っており、流石にO街道を走る車の量は減ってきている。道路の脇の歩道には、人通りは全く無くなっていた。
先ほど長距離の客をM駅で拾って30分くらいの距離にあるW町まで乗せて行き、そしてまたM駅に戻る途中だった。
田代はタクシー運転手になってまだ日が浅い。
もともとはメーカーで営業をやっていたのだが、3か月前にタクシー運転手に転じた。
メーカーに勤めていた時は仕事のノルマは厳しく、業務効率化の名のもとどんどん人は減らされていた。それと反比例するようにして一人当たりの仕事量は雪だるま式に増えていく。そのような日々の中で自分の前に敷かれたレールの先に、出世するという未来も見通すことができなかったし、給料が上がっていくという未来を期待することもできなかった。
45歳になったある日、会社でどうしても我慢できない出来事があって、
「こんな会社なんて、辞めてやる!」
と上司に啖呵を切っていた。そしてその勢いのままに退職届を出したのだ。
だけど、そのレールを離れてみると、自分がどこに向かえばいいのかもわからなかった。会社員時代はレールの上を走り続けていることにへとへとになっていたとしても、それでもレールに乗ってさえいれば前に進むことができた。だけど、そのレールから降りてしまったら、田代は前にも進めなくなっていた。
田代は独身で家族がいなかったことが、せめてもの救いだった。
退職金を切り崩す生活を過ごす中で、田代は別のレールを必死になって探した。そして三か月前に今のタクシー会社に採用されて、今はタクシー運転手として何とか生きていけるだけの収入を得ることはできていた。
ふと、田代がタクシーを走らせている道の先で、一人の人影が目に入った。道路脇にある街灯は薄暗く、はっきりとは見えない。だけど、こちらに向かって右手を挙げているようだった。
田代はウインカーを出した。ブレーキを踏んで車をゆっくりと減速させていき、そして歩道側に車を寄せた。
その人影は、若い女性のようだった。
黒い髪はとても長く、その髪が顔を隠していて顔はよく見えない。
もう5月になるというのに、季節外れのベージュのコートをきていた。肩からは大きなバッグを下げている。
田代は後部座席のドアを開ける。
女性は無言でタクシーに乗り込んできた。
「どちらまで行かれますか?」
田代の声に、女性は異様に低い声で、
「K町までお願いします」
と言った。K町は、今、田代が向かっていたM駅の途中にある町だった。
「はい。分かりました」
田代はバックミラーで後部座席を見る。女性はやや俯いていて、やはりその黒い髪で顔はよく見えなかった。
「それでは、シートベルトをお締めください」
女性は、田代の言葉が聞こえなかったかのように、まったく動こうとはしない。だけど、シートベルトを締めようとしない客も中にはいる。田代はこれ以上、何も言わなかった。
田代はタクシーを発車させる。しばらく車内は無言だった。話しかけやすそうな客であれば、時々世間話をすることもあったのだが、後部座席の女性を見て、とてもそんな雰囲気でもなさそうだったので田代は黙って車を運転し続けていた。
しばらく走っていると、無線機から、
「この先、M駅までの道で、感度不良あり。ご注意ください」
という言葉が流れてきた。
田代は、無線機を取り「了解」と答える。
「それ、どういう意味ですか?」
突然後ろから声が聞こえた。田代は驚いて「え?」と声を上げてしまう。
「感度不良って、どういう意味ですか?」
後部座席に座る女性の声だった。
「あ、ああ。隠語なんですよ」
「隠語?」
「はい。私も知らなかったのですが、タクシー業界の隠語なんですよ。この先で交通取り締まりをやっているという意味です。一応隠語なので、誰にも言わないでくださいね」
田代がバックミラー越しに後部座席の女性に視線を送ると、黒い髪の隙間から、女性が感情を失った目でこちらを見ているのが見えた。