創作ノート

短編小説を書いています。

エクリプスリアルム(28)

 

明子は再び、重い口を開く。

「夜7時過ぎに家に帰ると、居間の電灯は消えていました。明かりを点けて部屋の中を見ると、居間のテーブルの上は朝、私が家を出た時のままでした。それを見て、美咲はどうしたのだろうと心配になりました。美咲の部屋のドアをノックしたのですが、何も返事は返ってきませんでした。『美咲、部屋にいるの?』と声をかけても、何の言葉も返ってきません。私はますます心配になって、ドアを開けて中を覗きました……」

「……」

「部屋の電灯は点いていませんでした……。美咲は、自分のデスクの上のノートパソコンの画面をじっと見つめていました。薄暗い部屋の中で、ノートパソコンのディスプレイの光を受けて美咲の顔が青白く浮かんでいました……。私が『美咲』と声をかけても、こちらを振り返ることもしません。まるで、私の存在に気づいていないようでした。だから私はもう少し大きな声で『美咲』と言いました……」

「……」

「その声に美咲はハッとするように顔を上げ、私の方を振り返りました。薄暗い部屋の中でも、美咲の目が赤く充血しているのがわかりました……。そして私の存在に初めて気づいたように『お母さん』とつぶやきました。その顔は無表情のような、悲しんでいるような、そして絶望しているような、私が今まで見たことがないような顔でした。何かに追い詰められているような顔でした……」

明子の、この言葉を聞いて、有希はエクリプスリアルムで自分の死の映像を見た時のことを思い出していた。そしてそれを見たときに自分を暗闇の底に引きずりこんでいった、抗うことのできない圧倒的な絶望を思い出していた。何かに救いを求めるように自分の母親を振り返ったときの美咲の思いが、有希には悲しいくらい分かった。

「その時の美咲の顔が、どうしても忘れられない……」

それまで淡々と話していた明子の声が揺らぐ。声を詰まらせる。

「私は、美咲に向かって『美咲、どうしたの。何があったの』と尋ねました。美咲は『何でもない。大丈夫だから』とやつれた顔で微かにほほえみました。それが逆に痛々しかった……。美咲の様子はどう見てもおかしかった。このような美咲は、今まで一度も見たことがなかった。だから私は『何でもないってことはないでしょ。何かあったんじゃないの』としつこく尋ねました……。だけど、美咲はそれ以上、何も言ってくれなかった……」

「……」

「山下さん……。あの時、美咲は何をしていたのでしょうか。何を抱えていたのでしょうか」

有希は、明子のその問いかけに何も答えることができない。答えたくても、答えられない。

「申し訳ありません。私にも分かりません」

「……そう……ですか」

6月なのに部屋の中は異様に寒く、この部屋を覆う空気が重たく有希の肩にのしかかってくる。沈黙の部屋の中で、口は凍り付いてしまったかのようになかなか開いてくれない。それでも、有希にはまだ明子に尋ねなければならないことがあった。

「お母様も思い出したくはないと思うのですが……。美咲さんが事故に遭った日、5月31日のことを教えていただきたいのです……。その日、美咲さんは、やはり自分の部屋に閉じ籠もっていたのでしょうか……」

「……はい。私は仕事をどうしても休めなかったので、朝、いつものように家を出ました……。それまでの二日間と同じように美咲の部屋のドアは閉じられたままでした。だけど、心配ではあったけど、そのときはまだそれほど深刻には考えていませんでした。年頃の女性のことなので、失恋でもしたのかと思っていました。美咲自身が『何でもない。大丈夫だから』と言うので、きっと大丈夫なのだろうと、自分自身に言い聞かせていたのかもしれません……」

「……」

「夜7時頃に家に帰ると、やはり美咲は自分の部屋に閉じ籠もっていました。急いで夕食の準備をし、美咲の部屋に向かって『美咲、夕食の準備できたよ』と言うと美咲は何も言わずに部屋から出てきました。美咲はその日も黙ってその夕食を食べていました……。その時の私は、美咲が言いたくないのならそっとしておこうと思っていたので、『何かあったの』とか『どうしたの』とか尋ねることはしませんでした。ただ、美咲の仕事のことは気になっていたので、『仕事は休んでいて、大丈夫なの?』とだけ尋ねました……」

「……」

「美咲は『うん。明日から行くね。心配をかけてごめん』と言いました。その顔が少しだけ明るいものに見えました。確かにやつれた顔のままだったのだけど、その顔を見て、問題も解決したのだろうか、と私も少しほっとしました……。夕食を食べ終えると、また美咲は自分の部屋に戻りました……」

「……」

「夜9時過ぎになって、美咲の部屋のドアが開く音が聞こえました。私はそのとき居間でテレビを見ていましたが、その音に反応するように視線を美咲の部屋の方に向けると、玄関で靴を履いている美咲の背中が見えました……。私は驚いて『美咲、こんな時間にどこに行くの?』と声をかけたのですが、美咲は私の方を振り向くこともなく『うん、ちょっと』とだけ言いました……」

「……」

「さすがにこんな時間に外に出るのはおかしいので、私も玄関に向かい、美咲の肩に手をかけて、美咲の顔を正面から見ました。『ちょっとって、こんな時間にどこに行くのよ』私がそう言うと、『ごめん、言えない。だけど、どうしても行かなければならないの』美咲は強い視線で私の目を見て言いました……。その強さに負けて、私は美咲の肩にかけた手を離してしまったのです……」

明子はそこで言葉を切る。

その時のことを思い出していたのかもしれない。明子は、膝の上で強く握った自分の両手をじっと見つめていた。

 

 

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