通夜式は滞りなく終わり、弔問客は明子にお悔やみの言葉をそれぞれ伝えてから帰っていく。
有希も明子と何か言葉を交わしたかった。一言、お礼を言いたかった。だけど、誰かに急かされるように話しをするのは嫌だったので、弔問客が消えていくのを、式場の片隅で辛抱強く待っていた。
弔問客の最後の一人が式場から出ていくのを見届けてから、有希はゆっくりと明子に近づいた。
「山下有希です。お電話をいただき、ありがとうございました」
有希は静かに頭を下げる。
明子は「いえ」と首を小さく横に振り、そして有希の後ろに一瞬、視線を彷徨わせた。岡田奈緒らしき女性の姿が見当たらないことに初めて気づいたかのように、
「岡田奈緒さんは・・・?」
と有希に尋ねる。
「奈緒は、体調が悪くて、どうしても来られなかったようです。やはり、美咲さんの突然の死に、大きなショックを受けているのかもしれません」
「そう・・・、ですか・・」
二人の間に沈黙が訪れる。
「あの日の夜・・・」
明子が、何かを吐き出すように言葉を口にした。
「あの日の夜・・・、どうして美咲は、あのような場所にいたんだろう・・・」
「え?」
有希が明子の顔に視線を向けると、明子は、有希の後ろにあった美咲の遺影をじっと見つめていた。
「美咲が事故にあった日の夜・・・、美咲は突然家を飛び出した。そして東京の郊外にあるT市の路上で事故にあった。美咲の口からT市のことなんて、今まで聞いたこともないのに・・・」
T市は美咲の自宅から2時間もかかるような遠く離れた場所だった。
有希は、明子の言葉にひっかかりを覚えた。
「美咲は、それまで自宅にいたのですか?」
事故にあったのが平日の夜だと聞いていたので、事故は美咲の仕事帰りに起きた不幸な事故だと思い込んでいたのだ。
明子は陰を帯びた顔で、有希を見つめる。
「実は、それまでの三日間、美咲は会社を休んでいたの」
「休んでいた・・・?」
「体調でも悪いのかって訊いたら、『何でもない。大丈夫だから』と言うだけで、他に何も言ってはくれなかった」
「・・・」
「だけど、その三日間、ずっと自分の部屋にこもっていた。食事の時だけは部屋を出てきたのだけど、何かに追い詰められているかのような、やつれた顔をして黙って食事を食べていた」
有希は驚いていた。
有希が抱く美咲のイメージの中に、明子の言うような姿の美咲は存在していなかった。そのような姿を想像することすらできなかった。
「そしてあの日の夜、行き先を一言も告げずに、追われるようにして家を出ていった」
「・・・」
「あの日の夜・・・、どうして美咲は、あのような場所にいたんだろう・・・」
明子は冒頭の問いかけを再び繰り返す。
有希は、明子の言葉を聴きながら、なぜ彼女は自分にこのような話をするのだろうか、と思った。
明子の中で、水に浮いた一滴の墨汁のように広がっていく疑問をどうすればいいのかわからなくて、それをただ誰かに話したかっただけなのだろうか。そしてたまたま、明子の前に有希が立っているというだけだったのだろうか。
あるいは、有希ならその答えを知っていると思ったのだろうか。
だけど有希自身も、美咲の口からT市のことを聞いたことは一度もなかった。当然、明子の問いかけに答えられるわけがなかった。
明子は最後に、誰かに問いかけるかのように言葉を吐き出す。
「何か、大切な用事でもあったのでしょうか・・・」
明子は相変わらず、遺影の中の美咲の姿を見つめていた。
だけど遺影の中の美咲は微笑むだけで、その問いかけに答えてくれることはなかった。
美咲はもう、この世界にはいないのだ。
もう誰も、美咲本人にそのことを尋ねることはできなかった。