有希はフーと息をつく。
机の上の時計を見ると、22時を回っていた。
いけない。作業に没頭していたら、こんな時間になっている。
修正作業をしていた動画ファイルを保存し直し、パソコンをシャットダウンさせる。
「今日もよく頑張った、私。えらい、えらい」
自分自身を褒めるように、小さく呟く。一人暮らしの有希には、自分で言わないと他に言ってくれる人はいない。たとえ自分自身からの言葉だとしても、その言葉があるとないとでは大違いだ。その言葉があるだけで、また明日も頑張ろうという気力に繋がる。
フリーとして自宅で仕事をするようになってからの二年間、いつの間にか仕事終わりに自分を褒めることが、有希の日課になっていた。
モニターがブラックアウトするのを確認してから、椅子から立ち上がる。そして頭の中で冷蔵庫の残り物を思い出しながらキッチンへと向かった。
確か冷蔵庫に豚肉と野菜が残っているはずだから、今日の夕食はそれを簡単に炒めて、肉野菜炒めにしよう。
冷蔵庫を開けると、思った通り、豚肉とキャベツと人参が入っていた。あと、その下にチーズが少し残っているのを見つける。
そうだ、まだチーズも食べ切っていないんだっけ。肉野菜炒めにチーズも入れよう。肉野菜炒めにとろけたチーズが絡んで、抜群に美味しくなるのだ。
少し得した気分になって、冷蔵庫を閉じた。
肉野菜炒めとご飯、そしてコップにはお茶を入れてテーブルの上に並べる。
「いただきます」
有希は両手を合わせてから、箸を手に取った。
テレビも付いておらず、静かな一人だけの部屋で自分の咀嚼音だけが聞こえる。
その音を聞きながら、二日前の美咲の通夜式のことを思い出していた。何もしていない時間が訪れると、どうしてもそのことを思い出してしまう。
明子の話では、美咲は事故に遭う三日前から会社を休んで自分の部屋に閉じこもっていた。
体調が悪くて休んでいたのなら特に不自然なところはない。だけど、心配した明子が体調のことを尋ねても、美咲は、
「何でもない。大丈夫だから」
と言うだけだったという。
何が大丈夫だったのだろう。そもそも、なぜ『大丈夫だから』と言ったのだろうか。その会話を交わす前には、本当は大丈夫ではないと思えてしまうような何かが起こっていたのだろうか。美咲に何があったのだろう。
色々と考えてはみるのだけど、有希には何も思いつくものはなかった。
一番不可解なのは、5月31日の夜に美咲は家を飛び出していき、その日の深夜に自宅から遠く離れたT市の路上で事故にあったことだ。
なぜそのような時間に、美咲はそんなところに行ったのか。明子が言ったように、そこに行かなければならない何らかの理由が美咲にはあったのだろうか。
いつも見ていた美咲の笑顔の裏側に、誰にも見せたことのない何かが隠れているような気がして、少し怖かった。
夕食を食べ終えると、食器をキッチンに持っていきそのまま食器を洗っていく。
その時ふと、クライアントの藤乃屋から、現在、有希たちが仕事として受けている動画作成に関してメールをもらうことになっていたのを思い出した。藤乃屋は宮城県S市にある老舗旅館で、その旅館のPR動画作成の仕事依頼を二週間前に受けていた。
食器を洗い終え、手を拭き、今日一日中座っていた仕事用デスクの前の椅子に舞い戻る。
メールが来ているかどうかくらいは、今日中に確認しておこう。
デスクトップパソコンを再び立ち上げ、メールソフトを開く。
今日はずっと動画編集作業に没頭してメールソフトを開いていなかったので、今日一日だけでも仕事関連のメールが未読のまま大量にたまっていた。それらのメールの送信者と件名が表示された一覧を新しいものから順に目を通していきながら、藤乃屋からのメールを探す。画面を下にスクロールしていき、今日より前のメールも確認したのだけど、藤乃屋からのメールはまだ来ていなかった。
「え?」
画面をスクロールしていた有希の指が止まった。
有希の目は、メールの送信者と件名が表示されているその一覧の一つの行に釘付けになっていた。
そのメールの送信者の欄には、「佐藤美咲」と表示されていた。
件名は「無題」だった。
大量の仕事関連のメールに埋もれて、そのメールを完全に見落としていた。美咲とはいつもメッセージアプリでメッセージをやりとりしていたので、パソコン用のメールアドレスに美咲からメールが来たことなんて今まで一度もなかった。
有希は、その行の「送信日」の欄に視線を移す。
その送信日の欄には、5月31日の16時13分と表示されている。
5月31日は、美咲が事故に遭った日だった。