創作ノート

短編小説を書いています。

隠語(12)

 

もし田代が嘘をついているのだとしたら、田代は5月10日の深夜に、居もしない乗客を乗せてタクシーを賃走にしたことになる。そして、後部座席に誰もいないタクシーの中で、タクシー本部に、

「カバンの忘れ物あり」

という無線連絡をしたことになる。

石川はその光景を想像して、薄ら寒い思いがした。とても常人の沙汰とは思えなかった。

柳刃包丁の柄から検出された田代の指紋。これだけの物証が出ていれば逮捕は時間の問題だった。

警察内部では、すでに田代の精神鑑定の話が挙がっている。

田代は前職で会社を辞めざるを得ない状況に追い込まれて、収入が途絶えるという期間を過ごしている。その期間は将来に対する不安も大きく、精神的にも不安定な状態だったはずだ。おそらくそこで精神に異常をきたしたのだろう。N交通で職を得た現在もその状態を心の奥底で引きずっていて、”長い髪の女”という妄想に取り憑かれた。

K県警の上層部もそのような意見で固まりつつあった。

捜査段階で被疑者の精神鑑定を行う場合は、起訴前鑑定というものが行われる。

その場合は、勾留期間中に裁判所に鑑定留置の請求を行い、裁判官がその請求を相当と認めた場合には鑑定留置状が発付される。鑑定留置はおそらく三ヶ月程度になるだろう。その間に、田代は医師のもとで精神鑑定を受けることになる。

石川は、これから先の段取りを簡単に頭の中に思い浮かべる。

長い道のりになりそうだった。

しかし、事件に関して一点だけ謎が残っていた。

5月10日の深夜に田代がK町派出所に姿を見せた時、田代の着るタクシーの制服には、返り血が一切付着していなかったのだ。

死亡した片岡巡査は胸を柳刃包丁で刺されている。犯人がその包丁を引き抜いたのだとしたら、犯人はかなりの量の返り血を浴びたと考えられる。現場写真で見た片岡巡査の周りの血溜まり。そしてタクシーに噴きかかった大量の返り血。その血飛沫の中、犯人が一切の返り血を浴びずにその場から立ち去ることは想像しにくかった。

それに対してK県警の上層部は、

「田代は着替えを用意しており、犯行後にその新しい制服に着替えた。そして犯行時に着ていたものは、K町派出所に向かうその途中のどこかで捨てたのだろう」

と考えていた。

その意向もあって、現場では、田代が遺棄したはずの制服を捜査メンバー総出で捜索しているところだった。

確かに、田代がN交通にスマホで電話をかけてからK町派出所に姿を見せるまで、空白の20分がある。その20分間で無駄なく行動することができるのであれば、そのような制服の交換と遺棄も可能なのかもしれない。

だけど、心神喪失した人間が、本当にそこまで用意周到なことができるのだろうか。

その点が、石川の中でどうしてもひっかかっていた。

石川は、マジックミラーの向こうにいる田代をじっと見つめる。

田代は相変わらず焦点の定まらない眼を下に向け、低く小さな声で、

「女が……、女が……

と呟き続けていた。

 

もし、田代の言う“女”が、本当にあの時、あの場所にいたのだとしたら……

 

石川は小さく首を横に振る。

考えすぎだ。そんなことはありえない。

「狂人の心を、常人の物差しで測ることなんてできるはずがない」

石川は自分自身に言い聞かせるように小さく呟いた。

 

 

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