創作ノート

短編小説を書いています。

エクリプスリアルム(29)

 

有希は今の明子の話に、一つの引っ掛かりを感じていた。

なぜ美咲は『どうしても行かなければならないの』と言ったのだろう。

その後、美咲は東京都T市の路上で事故に遭うことになる。もしエクリプスリアルムで見た自分の未来の死を予言する映像が、T市で事故に遭う映像だったのだとしたら、なぜわざわざ自分からT市に行ったのか。『どうしても行かなければならないの』とはどういう意味だったのか。そのエクリプスリアルムで予言された場所に行くこと自体に、何か別の目的があったのか。

いくら考えても、有希にはどうしても分からなかった。

「……美咲は、玄関から出るときに、一度だけ私を振り返って、『全てが終わったら、ちゃんと話すから』と言いました。そして、この家から出ていきました……。だけど、美咲はもう二度とこの家には帰って来なかった……。もしあの時、私が美咲を引き止めていたら……。美咲の肩にかけていた手を離さなかったら……」

掠れた声で明子が呟くように言う。明子の顔に視線を向けると、明子は自分の思いを噛み締めるかのように口を強く引き結んでいた。明子は、その時のことを今でも悔やみ続けているのかもしれない。そして今でも自分を責め続けているのかもしれない。

有希はそんな明子の様子を見て、居たたまれなくなって小さく頭を下げる。

「……思い出したくないことなのに、こんなことを訊いてしまって、本当に申し訳ありません」

だけど、有希にはあと一つだけ、どうしても明子に確認しなければならないことが残っていた。

「すみませんが、最後に一つだけ確認させてください」

有希の言葉に、明子が伏せていた目を微かに上げた。

「美咲さんが自分の部屋に籠もっていた三日間の中で、美咲さんの口から、“エクリプスリアルム”という言葉を聞いた記憶はありますでしょうか」

「……エクリプス……リアルム」

明子は確認するかのように、有希の言葉を口の中で小さく繰り返す。そして少し考える素振りを見せた後、

「そのような言葉を、美咲の口から聞いたことは一度もないと思います」

はっきりと首を横に振った。

明子と有希の二人だけの部屋が、急に静かになる。部屋に沈黙が詰め込まれていく。その沈黙の中で、明子は明子で、美咲との最後の日々を思い出していたのかもしれない。有希はというと、聞いたばかりの明子の話を頭の中で思い返していた。

やはり、美咲は会社を休んだ5月29日の前日、つまり、5月28日の夜にエクリプスリアルムで自分の死を予言する映像を見たのだろう。そのショックは大きかったはずだ。それでも迫りくる自分の死の恐怖に怯えながらも、必死に抗い、自分の部屋に籠もってその運命を変える方法を必死になって探していた。だけどそのことは自分の母親である明子には一言も言わなかった。明子に心配をかけたくなかったのだろう。

そして5月31日の夜、夕食の場で明子に、明日から会社に行く、と言った。しかもその顔は少し明るかったという。これも明子を心配させないための演技の可能性はある。だけど、やはり美咲はその夕食の前、そして有希にあのメールを送った午後4時13分の前に、エクリプスリアルムの死の運命を変えるための何かしらの手掛かりを掴んだのではないのか。

明子からの話からは具体的な手掛かりを得ることはできなかったのだけど、その話を聞いて、美咲の最後の三日間を一つのリアリティのあるシーンとして有希はイメージすることができた。

美咲が三日間自分の部屋に籠もって死の運命を変える方法を探していたのだとしたら、美咲の部屋の中に何か手掛かりが残されているかもしれない。

居間では、有希はテーブルを挟んで明子と向かい合う形で座っていた。その有希の前に、つまり明子の背後に一つのドアが見える。

「あの、あちらが美咲さんのお部屋でしょうか?」

「え?」

突然現実に引き戻されたように、明子が視線を上げる。そして、右手で明子の背後を指し示す有希の姿を見て、後ろを振り返った。

「あ、ああ……。そうです。美咲の部屋です」

「美咲さんの部屋なのですが……。拝見させていただいてもよろしいでしょうか」

明子は、美咲の部屋を見たいと言った有希の意図を探るかのように、考えるような間を少し挟んだ。そして、「はい……。きっと美咲も、山下さんなら自分の部屋に入ってもいいよ、と言うと思うので……」と言って、ソファから立ち上がった。そのドアに歩み寄る明子に従うように、有希も立ち上がった。

明子がドアを開ける。まず明子が部屋の中に入り、引き続いて有希も入った。

美咲の部屋は6畳ほどの広さで、部屋の隅にベッドが置かれていた。そしてそのベッドと対称となる位置に小さなデスクと木製の椅子が置かれている。デスクの横には小さな本棚が並んでいた。部屋の持ち主のさっぱりした性格を映すかのように、物も少なくさっぱりとした部屋だった。

その部屋を見やりながら、明子は誰にともなく、

「自分の中でまだ美咲の死を受け入れることができなくて……。だから部屋も片付けることもできなくて、美咲があの夜、家を出ていった時のままになっています……」

と呟く。その言葉に、有希は何の慰めの言葉も返すことができない。ただ、明子の小さな背中を見つめていた。

明子はまたドアの前まで歩み寄って、有希に、「終わったら声をかけてください」という言葉を残して部屋から出ていった。この部屋の中で有希が美咲のことを悼むのだと思って、気を使ったのかもしれない。

有希は閉じられたドアに向かって、「ごめんなさい……」と小さな声で謝った。

 

 

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