創作ノート

短編小説を書いています。

隠語(7)

 

女は再び右手を振り上げる。そして窓ガラスに包丁の柄を振り下ろした。先ほどと同じようなガンッという音が車内に響く。

田代は大きく目を見開いて、その女の様子を見つめていた。

自分の身に何が起きているのか分からなかった。ただ茫然となりながら、口を半分だらしなく開けていた。そして、髪を振り乱して包丁の柄を窓ガラスに叩きつけてくる女の不気味な笑い顔を見つめていた。

それは何度も続いた。

ガンッ。ガンッ。ガンッ。

この世のものとも思えない音を聞くたびに、田代は自分を見失っていく。

その時、突然、女の背後に何かの光が見えた、気がした。

田代はハッと我に返る。

その光は左右上下と小さくゆらめきながら、徐々にこちらに近づいてくるようだった。背後から照らしてくる光に気がついたのか、女は動きを止めた。

その光は、誰かが持っている何かしらのライトのようだった。こちらに歩いてくる動きに合わせるように、ライトも動いている。そのライトがタクシーから10メートルくらいの距離まで近づいた時に、田代の目にようやくその光の正体が見えた。

それは一人の男性警察官だった。

紺色の上下の制服に、同じように紺色の帽子を被っている。年齢は30代くらいだろうか。学生時代にスポーツでもしていたのか、制服の上からもそのがっしりした体格が窺われた。

「どうかされましたか?」

ガラス越しに、その警察官の男の声が小さく聞こえた。

助かった。

田代は胸を撫で下ろす。

佐々木が連絡した派出所から、警察官が来てくれたようだ。

だけどすぐに、何かがおかしいと気づいた。

その警察官は何の警戒をすることもなく、女に近づいてきている。田代は警察官から女に視線を移す。右手にはやはり柳刃包丁が握られていた。だけど、その右手は女の体のすぐ前で止まっていた。その右手を、女の体自体が覆い隠している。背後から近づく警察官の位置からはその右手を見ることはできなかった。

あの警察官は、この女が右手に握っている包丁に気づいていない。

見えているのが女性の後ろ姿だけということもあり、警戒することもなく近づいてきている。

田代の混乱した頭でも、何か、非常にまずい事態が目の前で起こっていることだけはかろうじて分かった。

こちらに近づいてくる警察官に、何とかしてこのことを伝えなければ。

田代は左手を左右に大きく振る。近づくな、というジェスチャーのつもりだった。だけど警察官は女性に気を取られて田代のことなんて見ていなかったし、たとえ見えていたとしてもそのジェスチャーが意味するところを理解するのも難しかったに違いない。

警察官は、女のすぐ背後で立ち止まった。

ライトを下に下ろし、

「どうかされましたか? 何か、トラブルですか?」

と口にした。

それは一瞬だった。

女は素早い動きで体を反転させ、そしてその勢いのままに右手を前に突き出していた。柳刃包丁の刃が、警察官の胸にスローモーションで入っていくのが見えた。その刃は、狙ったかのように、警察官が肩から下げている防刃ベストの首元の隙間に突き立てられていた。

警察官はぽかんとした表情で自分の胸を見ていた。その一瞬、自分の身に何が起きたのかすらも分からなかったのだろう。だけどその表情はすぐに苦悶の表情に変わった。

女は突き出した時と同じような素早い動きで、包丁を引き抜く。

警察官の胸から、まるでシャワーのように真っ赤な血が噴き出る。その血は窓ガラスにも噴きかかり、田代の視界は真っ赤に染まった。

田代は、目の前の光景を信じられないような思いで見つめていた。

とても現実だとは思えなかった。

自分は夢でも見ているのかと思った。

もし夢を見ているのだとしたら、この悪夢から今すぐにでも目が覚めて欲しかった。

ガンッ。

大きな音が車内に響く。

赤い世界の向こう側で、再び女が包丁の柄を窓ガラスに向かって振り下ろしている。

夢ではなかった。

 

 

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