真尋は久しぶりに、自分の幼い頃の記憶を思い出していた。
部屋の壁にもたれかかるようにして座り、殺風景の部屋をぼんやりと見つめる。
そうだ、あの日担任から作文を返してもらって、純粋に担任の言葉を信じた私は、その作文を母に渡したのだ。いつものように仕事帰りの母は、疲れ果てた顔をして家事をしていた。真尋は、
「これ、お母さんに見せてあげてって・・・」
そう呟きながら、手元の原稿用紙を母に差し出した。
「何、これ?」
母は不思議そうな顔をして真尋を見た。
「学校でお母さんについて作文を書く授業があって、私が書いた。先生が、お母さんに見せてあげてって・・・」
母は「そう」といって、真尋からその原稿用紙を受け取った。そして立ったままその作文を読んでいく。原稿用紙に隠れてその表情は見えなかった。だけど、しばらく読んでから母は次のような言葉を掠れた小さな声で呟いたのだ。
「あなたさえいなければ、私はこんなところから逃げられるのに・・・」
母は誰にも聞かれないように小さな声で呟いたのかも知れなかった。だけど、その呟きは真尋の耳に小さな反響を伴って飛び込んできた。いっそ、聞こえなければよかったのに。真尋は冷たい心でそんなことを思った。
真尋にとって、幼い頃の母との記憶はどこか忌まわしいもののように思えて、いつの間にかそれらの記憶に蓋をするようになっていた。いつから蓋をし始めたのだろうか。例えばこの作文を読んだ後の母の呟きを聞いた時からなのか。それとも、それよりももっと以前に、きっかけとなる何かしらの出来事があったのか・・・。
真尋は小さく頭を横に振って、立ち上がった。
そして再び奇妙な絵を見つめた。
塔のような建物の入り口から出て行こうとしている女性の姿。
その女性を窓から無表情に見つめている少女の姿。
この閉じ込められた部屋で奇妙な絵を目の当たりにし、真尋の記憶の中から母との思い出が顔を覗かし始めていた。