父の真尋に対する“しつけ”を母が知った日から、その“しつけ”は家の中では秘密でもなんでもなくなった。
それまでは小心者の父は、母が家にいない時にしかその“しつけ”をしなかったのだけど、もはや家の中では母の視線を気にすることもなくなっていた。
少しでも家で気に入らないことがあると、濁った目を真尋に向け、
「そこに立ちなさい」
と自分の前を右手で指し示す。
そして服で隠れるところをひたすら執拗に狙った。
痛みに耐えながら真尋が台所に目をやると、母はまるで居間では何も起こっていないかのように料理をしていた。その様子を見て、真尋は、
“お母さんにも、私は見捨てられたんだ・・・”
と、ぽつりと思った。
その“しつけ”の最中は、真尋は自分の意識を現実世界から切り離していた。父も母もいない未来をひたすら想像していた。その想像上の未来では父に怯えることも無かったし、母の視線に絶望することも無かった。そんな空想上の未来になんとか希望を見出していた。
その“しつけ”が始まってから半年が経った時だった。
夜の9時過ぎに、父は仕事から家に帰ってきた。
きっとその日も仕事で何か嫌なことがあったのだろう。玄関のドアを開けた父は全身に不機嫌の空気をまとっていた。居間で背広の上着を脱ぎ捨て、それ以外は着替えることもなくそのまま台所に向かった。そして冷蔵庫からビールを取り出してそのまま居間のソファーに座る。口では、小さな掠れた声で、
「ふざけやがって・・・」
と何度も呟いていた。
その様子を見て母は特に何も喋らなかった。
黙って用意しておいた料理を居間のテーブルの上に置いていく。そこには真尋の分の夕食もあった。家では父が帰るまで夕食は食べられないことになっていて、母も真尋もまだ夜は何も食べていなかった。お腹が空いていた真尋は自分の茶碗を持ってご飯を食べ始めた。
その時だった。
父が、真尋の方に視線を向けていた。そして低い声で、
「なんだ、その意地汚い食べ方は」
と真尋に向かって吐き捨てるように言った。
「え?」
「意地汚いって言ったんだよ」
「・・・」
父は右手に持ったビール缶をテーブルの上に置き、そして真尋に、
「そこに立ちなさい」
と言った。
きっと、理由はなんでも良かったのだと思う。自分より弱い存在を痛めつけることで自分の優位性を確認する。そしてそれで自分の中のストレスを発散する。それができればなんでも良かったのだと思う。
真尋は茶碗をテーブルの上に置いて、父の前に立った。
そして“しつけ”が始まった。
真尋はいつものように、父も母も存在しない遠い未来をひたすら想像していた。