創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(40)

 

真尋が“父が存在しなかった世界”に逃げ込んでいた中で、一方では母は、“夫が失踪した世界”を一人で息を潜めるようにして生きていた。

あの夜、母が手にして家を出たスーツケース。あのスーツケースをどこに捨ててきたのか、そして今どこにあるのか、真尋は知らない。だけど母は、あのスーツケースがいつ発見されるかに怯えながら毎日を送っていたのだと思う。あのスーツケースが発見されないことをひたすら祈りながら、今日という日を生き続けていたのだと思う。

その日々は、母にとってどのような意味を持つものだったのだろうか。

“父が存在しなかった世界”を一人で生きてきた真尋には、想像することすらできなかった。

あの日を境に、母と真尋の進む方向は全く違うものになっていた。一日を経るごとにそれぞれの心は離れていき、それに伴ってそれぞれの生きる世界はますます乖離していくしかなかった。

 

いつからか母は、真尋が父親の記憶を無くしていることに気づいていたのだと思う。

だけど母は、それでも構わないと思ったのだと思う。

だって、母にとっても父の存在は、忘れるべきもの以外の何ものでも無かったのだから。ある意味では、母自身も“夫が存在しなかった世界”を生きようとしていたのかもしれない。

そのような日々の中で、自分の父親の記憶を消した真尋が、小学生の時に母に問いかけた言葉。

「どうしてうちにはパパがいないの?」

その言葉を母はどんな思いで聞いたのだろう。

母の胸に去来した思いは悲しみだったのか、絶望だったのか、後悔だったのか、あるいは憎しみだったのか。

そして、その後に母が真尋にぶつけた言葉。

「あなたさえいなければ、私はこんなところから逃げられるのに・・・」

その言葉は、“夫が失踪した世界”でじっと息を潜めるように生きるしかなかった母の、本心から溢れた言葉だったのかもしれない。今になって、その言葉の本当の意味を真尋は知った気がした。

母は、自分の人生を投げ捨ててまで真尋を守ってくれた。

だけど同時に、そのような人生を生きるしかなかった自分の運命を呪っていた。

それは、真尋自身を呪っていることと同じだった。

 

その7年後、母は真尋の知らないところで父の失踪届を出すことになる。

“父が存在しなかった世界”を生きていた真尋に、母は失踪届のことを話すことは無かった。

 

 

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