明子の家を出ると、有希は寄り道することもなく駅に向かった。
そのまま、自宅の最寄り駅に向かう電車に飛び乗る。
少しでも早く美咲の日記を読みたかったので、途中、喫茶店に入ってその日記を読むことも考えたのだけど、日記に何が書かれているかも分からない。もしかしたら自分が平静でいられなくなるような何かが書かれているかもしれない。それを考えると、できれば自分一人の空間の中でその日記を読みたかった。電車の中では、バッグの中から日記を取り出して読み始めたい衝動を必死に抑えながら、座席に座っていた。
平日、午前の遅い時間の電車の中は、人の姿もまばらだった。
有希の前の座席では、今日は遅めの登校なのだろうか、制服を着た二人の女子高生が何やら楽しそうに話している。その二人から少し離れた座席では、スマホ画面を難しい顔で見つめているスーツ姿の中年男性が座っていた。彼はこれから得意先に行くところの営業マンなのかもしれない。
彼らの後ろに広がる車窓に視線を転じると、その外では、初夏の暖かな日差しを受けた住宅の群れが、四角い枠を横に流れていくのが見えた。
有希の目の前には、いつもと変わらない日常という平和な世界が広がっていた。体の前で抱えるようにして持っている黒いバッグ、その端を掴む手に力を入れる。
同じ世界にいるはずなのに……。
同じ世界にいたはずなのに……。
いつの間にか、自分は彼らとは全く違う世界に立っている。
どうしてこのようなことになってしまったのだろう。有希はぼんやりと考え続けていた。目の前に広がる世界の中にその答えを探し続けていたのだけど、その答えはどうしても見つからなかった。
電車は遅延することもなく、自宅のある最寄り駅に着いた。
そこでも有希は寄り道をすることもなく自宅に向かう。その歩調は、いつの間にか早足になっていた。
自宅に着くと、すぐに仕事用デスクの前に向かった。
肩に下げたバッグの中から表紙が空色の小さなノートを取り出して、デスクの上に置く。バッグはデスクの脇に投げ出すように置き、そのまま座ってノートを手に取った。外出着から部屋着に着替えることもしなかった。部屋の電灯を点けることすらしなかった。その手間すら惜しんだ。
有希は、窓から差し込む日の明かりの中で、その美咲の日記を読み始めた。
日記の序盤は、一人の若い女性のありふれた日常が描かれていた。会社のこと、家のこと、そして時々、有希の名前もその日記に登場した。例えば4月20日の日記には次のように書かれていた。
4月20日(土)
今日は有希とお出かけ。
私が前から欲しかった、ハンドメイド用の工具を買うのに付き合ってくれた。有希はいつも冷静なアドバイスをくれるので助かる。本当に買い物のお供にはぴったりだ。
有希は大学を卒業した後でも、私と変わらず付き合ってくれる。
素直に嬉しい。
できれば奈緒も誘いたいけど、奈緒は地元に就職して東京からは離れてしまったので少し誘いづらい。
だけど、いつか誘ってみよう。
大学の時みたいに、有希と奈緒と私、三人でいつか遊ぼう。三人が集まれば、楽しかった大学時代に戻れるような気がする。怖いものなんて何もなかった、あの時の三人に戻れる気がする。
有希も奈緒もこの提案にはきっと賛成してくれるはず。
美咲と二人で遊んだときのことだ。
そのときの光景が頭の中で蘇る。まるで昨日のことのように思い出される。
あの買い物の裏では、美咲はこんなことを考えていたのか……。
結局、美咲は三人で遊ぶことを提案することはなかった。提案する前に事故に遭って亡くなってしまった。あの時の有希は、美咲が亡くなることになるなんて全く想像していなかったし、美咲自身も想像していなかったのだと思った。
有希は悲しみを押し殺すようにして、日記のページを捲る。
その日記の途中で、一人の見慣れない女性の名前が出てきた。
名前は「茜」といい、日記では名字は出てこない。
有希自身は美咲の口から「茜」という名前を聞いたことはなかった。
美咲と「茜」は同じ高校に通うクラスメートだったが、二人は遠く離れた大学にそれぞれ進学することになって、それ以来疎遠になっていたようだ。ただ、それでもたまに連絡を取り合っているような記載が日記には出てくる。その日記の文章を読むと、二人は、高校時代はとても仲が良かったことが窺われた。
「茜」の名前は4月30日の日記に一度出てきてからは、しばらく日記には出てこなかった。
再び「茜」が日記に現れたのは、5月21日の日記だった。