藤田が機材の入ったバッグを部屋の隅に置き、撮影の準備を始める。
有希は、撮影の段取りを決めるため佐々木と鈴木に歩み寄った。
「佐々木社長。緑翠の間はもともと予定していた撮影場所ではないので、セリフとなる原稿も事前に準備されていないかと思います。言おうと考えているセリフを始めに紙に書き起こして、話す練習をなさいますか?」
佐々木は首を軽く横に振る。
「いや、なに。わざわざ紙に書き起こさなくても大丈夫ですよ。この旅館で働き始めて30年が経っていますから。この緑翠の間のことは、頭に刻み込まれています」
自信ありげに言った。
確かに、全て決められたセリフを言うよりも、このようなアドリブがあった方が映像にリアリティが出る。そこは佐々木に任せることにした。
「山下さん、カメラの準備はOKです」
部屋の中央でカメラを持った藤田が、有希を振り返る。
「それでは、佐々木社長。お願いします」
有希が佐々木に言葉をかけると、佐々木は黙ってカメラの前に立った。
藤田が佐々木に対して、動きについての簡単な指示を出す。
「このガラス張りの壁の向こう側の景色の驚きと広がりを表現するため、まずはガラスが映らない部屋の隅から、ガラスの方に向かって歩いていく形をとりましょう。その動きに合わせてカメラも移動します。映像のクライマックスは、ガラスの向こうに広がる木々、そしてその木々に囲まれる佐々木社長の姿になるようにします」
左手で部屋の隅を指して、そこからの具体的な動きを、カメラを右手に持ちながら佐々木に指示していく。佐々木は「分かりました」と言って、うなずいた。
佐々木が、藤田が最初に指し示した部屋の隅に立ち、藤田の方を向く。
「始めはリハーサルです。肩の力を抜いて気楽に行きましょう。録画開始しているので、ご自分のタイミングで始めてください」
カメラを構えた藤田のこの言葉で、緑翠の間のリハーサルがスタートした。
佐々木はカメラの方を向きながら、ゆっくりとガラスの方に歩いていく。その姿を、藤田もカメラを持ちながら追いかけていく。
「藤乃屋自慢の客室、緑翠の間は、15畳の広々とした和室で、一面がガラス張りになっているのが特徴です。窓の外には、色鮮やかな木々が一面に広がり、まるで自然の中にいるような感覚を味わえます……」
佐々木が滑らかな口調で言う。先ほどの、佐々木の『この緑翠の間のことは、頭に刻み込まれています』という言葉も、頷けるものだった。
「朝は鳥のさえずりに目覚め、夜は満天の星空を眺める。都会では味わえない贅沢な時間を、この部屋でゆっくりとお過ごしください」
佐々木の自信に満ちた顔でリハーサルは終わった。
藤田と一緒に、有希はカメラの背面ディスプレイで先ほど撮影したリハーサルの映像をチェックする。
「もう少し、佐々木社長がガラスの近くを歩いた方が、窓の外の臨場感が出るんじゃないかしら」
「そうですね。そっちの方が確かに良さそうだ」
藤田はさっそく、佐々木に細かい動きの修正を指示する。
そして、撮影の本番が始まった。
カメラの前に立つ佐々木は、リハーサルとは違ってさすがに少し緊張しているのか、強張った顔をしている。
「佐々木社長。リハーサルの時のように、リラックスしていきましょう」
藤田の言葉に、佐々木は強張った顔のまま笑った。
リハーサルの時と同じように、佐々木はカメラの方を向きながら、ゆっくりとガラスに近づいていく。
「窓の外には、色鮮やかな木々が一面に広がり、まるで自然の中に……」
その時だった。
カメラに集中しすぎて足元が疎かになっていたのか、佐々木は右足を自分の左足に引っ掛けてしまい、派手に転んでしまったのだ。
ドスンという大きな音が部屋に響き、佐々木が畳の上をころころと転がる。その音があまりに大きかったので、有希は驚いて、カメラを持つ藤田の後ろから佐々木の元に駆け寄っていた。
佐々木の前に膝をつき、「大丈夫ですか?」と声をかける。佐々木は苦笑いをしながら、
「大丈夫です。すいません、こけちゃいました」
顔の前で右手を振っている。
その様子を見て、有希の体は固まった。
あれ……?
この光景って……?
どこかで、見たことがある……?
有希の中に、ある強烈な違和感が込み上げてくる。
「あ!」
有希は大きな声をあげていた。
あの動画だ……。
エクリプスリアルムというサイトに上がっていた、あの動画だ……。
自分によく似た女性が映されていた、あの動画……。
有希はびくっと一度大きく体を震わせて、後ろを振り返る。
驚いた顔をして有希を見ている藤田の姿がそこにはあった。そしてその手に持っているカメラは、有希の方に向けられていた。
なぜ……。
こんなことが……。
これはどういうことなのか……。
頭の中は完全に混乱していた。
呆然となりながら、反射的に自分の左手にはめた腕時計に視線を落とす。時計の針は午後1時58分をさし示している。あの動画に表示されていた時刻と、まったく同じ時刻だった。