創作ノート

短編小説を書いています。

隠語(10)

 

 

石川英二は、目の前のマジックミラーを覗き込む。

マジックミラーの向こう側に、小さな部屋が見えた。

6畳くらいの殺風景な部屋の中央に一つの机が置かれている。そしてその机の向こうには、こちらを向くようにして一人の男が座っていた。目の下には深いくまができており、虚な目で、何も置かれていない机の上を見つめている。口では何かをボソボソと呟いている。

石川は耳を澄ます。

その男は、低く震えるような声で、

「女が・・・、女が・・・」

とひたすら繰り返していた。

その男、田代勇輝が、石川の勤務するK県警に移送されてきたのは二日前のことだった。

この二日間、現役の警察官が殺害されたということで、世間では大きなニュースになっていた。先ほどから県警の建物の上をヘリコプターが飛ぶ音が聞こえる。おそらく、今日もどこかのテレビ局がヘリコプターを飛ばして、田代が移送されたこのK県警を撮影しているのだろう。

警察官が被害者となる重大事件ということもあり、警部である石川がこの事件を担当することになった。石川は、マジックミラーの向こう側にいる田代を見つめながら、今朝目を通した調書の内容を思い出していた。

 

5月10日、金曜日の深夜に、田代は一人の若い女性客をタクシーに乗せたという。

田代の乗るタクシーのタクシーメーターは後日調べられていて、23時45分に賃走が開始されていることは確認されている。田代のいう「女性客」はその時の乗客だと考えられる。

そこで田代は、その女性客のコートが赤黒い血のようなもので汚れていることに気づき、自身の勤務するN交通のタクシー本部に隠語の中で異常を知らせる。石川は”カバンの忘れ物”というタクシー業界の隠語を今回初めて知った。そのときの無線通話もタクシー本部の機器に録音されていて残っている。時刻は23時55分。

0時5分にタクシー本部から110番通報が入る。その通報を受けて、近くのK町派出所の片岡巡査が、確認のため派出所を出てバス通りに向かう。

タクシーがK町に到着すると、田代はタクシーを停めた。

そして料金をもらうために後ろを振り返ると、女性客は

「もっとタクシーに乗っていたい」

と言って、バッグから何かを取り出そうとしたらしい。それが何かしらの凶器だと思った田代は身の危険を感じて、タクシーを乗り捨てて逃げ出した。

その後、私用のスマホでタクシー本部に電話をして、上司である佐々木に状況を説明する。その会話は田代の私用のスマホで行われたので、録音としては残っていないが、警察はN交通の佐々木からはすでに話は聞いていて、田代と佐々木の供述の間で特に矛盾はなかった。通話記録を確認したところでは、その通話は0時27分から32分までの5分間続いていた。

問題は、その後だった。

佐々木に説得されて田代はタクシーに戻る。

タクシーに、女性の姿はすでになかった。

田代が後部座席のドアを開けて中を確認すると、ちょうど女性が座っていたあたりが、血のようなものでべったりと濡れていたという。

その場から離れようと運転席に乗りこみ、そこでエンジンをかけようとしたところに、あの女性がタクシーの前に飛び出してきた。女性はタクシーに向かって走り出したので、田代は慌ててドアのロックを閉める。女はドアノブを握りドアを開けようとしていたが開けられず、ドアを開けることを諦めて次に、右手に持った柳刃包丁の柄で窓ガラスを執拗に打ちつけ始めた。

そこに、片岡巡査がやってくる。

片岡巡査はそのままタクシーに近づいて来たが、そこでその女性客が、右手に持つ柳刃包丁で片岡巡査の胸を突き刺したという。

女性は再び包丁の柄で窓ガラスを打ちつけ始める中で、田代は私用のスマホでタクシー本部に電話をする。その時刻は0時52分であったことは、通話記録から確認されている。

田代は、

「ガラスを打ちつけた音が聞こえたでしょ」

と電話口の佐々木に言ったそうだが、佐々木は警察に対して、それらしき音は一切聞こえなかったと供述している。

そこに一つの矛盾があった。

田代は田代で、

「あれだけの音が聞こえなかったわけがない。佐々木は嘘をついている」

と供述しているのだ。

二人で言っていることが全く違う。

つまり、田代と佐々木、どちらかが嘘をついている。

 

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

小説ランキング
小説ランキング