母はその捜索願の中で、父は前日の土曜日に出かけたまま帰ってこない、と記載した。そして、財布などの貴重品やパスポートなどを持ち出して父は家を出た、とも記載した。
そう記載すれば父はあたかも家出をしたかのように装うことができたし、大人の行方不明者、特に事件性がない家出を疑われる行方不明者は「一般家出人」として扱われて、警察が特別に捜索に乗り出してくることはない、ということを裏で計算していた。
家に帰った母は、何か警察の捜査が入った時に自分の娘である真尋と口裏をあわせる必要があると思ったのか、提出した捜索願について詳細に真尋に説明した。
「いい、あなたの父親は、土曜日の午後に一人で出かけたの。そしてその日の夜は帰ってこなかったの。そしてその次の日も帰ってこなかったの」
母は、真尋に言い含めるように何度も何度も繰り返した。
そのようにして、母は真尋を守ろうとした。守ろうとしてくれた。
真尋の記憶の中の、
「真尋。何もなかったの。だから、あなたも忘れなさい」
という母の言葉。
それは、母が真尋を守ろうとして口にした言葉だった。
決して、母自身を守ろうとして、母が口にした言葉ではなかった。
なぜ、そんな大切なことを、今の今まで忘れてしまっていたのだろう・・・。
手に持った奇妙な絵に目を落とす。
その絵に描かれた、ベッドに横たわる男と、その傍らに立ち尽くす感情を失った少女。そして彼らを部屋の隅で見つめている、表情が黒く塗りつぶされた一人の女性。その女性の姿をじっと見つめながら、真尋は心の中でつぶやいていた。
現実はあまりにも悲しくて、あまりにも辛くて、あまりにも重たくて、6歳の真尋の小さな心では、その現実を抱えきれなかったのかもしれない。
父の“しつけ”が続いていた日々の中で、真尋はひたすら“父のいない世界”を想像していた。その世界はあまりに強固なものとして真尋の心の中で作り上げられ、いつしか“父のいない世界”の方が真尋にとっての現実になっていたのかもしれない。
少なくとも、自分を守るために、真尋はその“父のいない世界”に縋り付くしかなかった。その架空の世界に希望を見出すしかなかった。そうでもしないと、一日だって生きられなかった。
隣の部屋にあった一枚の紙切れを思い出す。
そこに印刷された一文。
“真実は、いつでもすぐそばにある”
目の前の絵に重なるように、その文字が真尋の目には見えていた。
本当だった。
真実は、真尋自身の中にあった。
いつでもすぐそばにあり続けていた。
その真実が見えていなかったのは、真尋だけだった。