母は真尋の両肩から手を離すと、すっと立ち上がった。
黙って寝室を出ていく。寝室の外で、何かを取り出しているような音が聞こえる。しばらくして、母は寝室に戻ってきた。その手にはスーツケースを持っていた。父が出張に行く際に時々使用していたものだ。押し入れの奥から取り出してきたのだろう。
母はそのスーツケースをベッドのすぐ横で開いた。
そしてベッドに近寄り、もう動かなくなった父の両脇に自分の両手を差し入れて、抱き抱えるようにして体を起こした。
真尋はその様子を黙って見つめていた。
母は感情を失ったかのように無表情で作業を続けていた。
この世界にはあまりにも辛いことが多すぎて、誰もが感情を失っていた。もちろん真尋自身も。
どうして、私を見殺しにしたの・・・。
その激情のような感情が真尋の心から波を引くように消えた後、真尋の心の中は空っぽになっていた。
母は両脇に抱えた父をベッドから引き摺り下ろし、スーツケースの上に押しやる。そして小柄な父の体を折りたたむようにしてスーツケースの中に詰め込み出した。女性一人の手ではその作業はなかなか難しく、長い時間がかかった。最後に父の両手をスーツケースの隙間に押し込み、スーツケースを閉じた。
作業を終えると母は、ため息を吐くかのように一度大きく息を吐いた。虚ろな眼でそのスーツケースを見つめる。そして母は後ろを振り返り、自分の後ろに立つ真尋に視線を向けた。
「真尋・・・」
真尋は母の視線を真正面から受け止めた。二人の視線が絡まる。そこには何の言葉も交わされることはなかったけど、だけどそれでもそれぞれの意思が、感情がその視線を通して交わされていた。少なくとも真尋にはそう感じた。
母は体を真尋の方に向け、そして真尋の両肩を両手で掴む。
その手には痛いくらいの力が込められていた。
「真尋。何もなかったの」
「・・・」
「何もなかったの」
「・・・」
「だから、あなたも忘れなさい」
なぜ母はこんなことをしたのだろう。
なぜ母はこんなことを真尋に言ったのだろう。
もしかしたら、自分の娘を見殺しにしてきたことに対する、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。
母は真尋の両肩から手を離し、すくっと立ち上がった。そして身支度をし始めた。もう真尋に視線を向けることもなかったし、真尋に声をかけることもなかった。
服をパジャマから洋服に着替え、上にカーディガンを羽織った母は、スーツケースを手に引き、黙って部屋から出て行った。
部屋を出ていく母の姿を、真尋は無表情のまま見つめ続けていた。