創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(37)

 

母は真尋の両肩から手を離すと、すっと立ち上がった。

黙って寝室を出ていく。寝室の外で、何かを取り出しているような音が聞こえる。しばらくして、母は寝室に戻ってきた。その手にはスーツケースを持っていた。父が出張に行く際に時々使用していたものだ。押し入れの奥から取り出してきたのだろう。

母はそのスーツケースをベッドのすぐ横で開いた。

そしてベッドに近寄り、もう動かなくなった父の両脇に自分の両手を差し入れて、抱き抱えるようにして体を起こした。

真尋はその様子を黙って見つめていた。

母は感情を失ったかのように無表情で作業を続けていた。

この世界にはあまりにも辛いことが多すぎて、誰もが感情を失っていた。もちろん真尋自身も。

 

どうして、私を見殺しにしたの・・・。

 

その激情のような感情が真尋の心から波を引くように消えた後、真尋の心の中は空っぽになっていた。

母は両脇に抱えた父をベッドから引き摺り下ろし、スーツケースの上に押しやる。そして小柄な父の体を折りたたむようにしてスーツケースの中に詰め込み出した。女性一人の手ではその作業はなかなか難しく、長い時間がかかった。最後に父の両手をスーツケースの隙間に押し込み、スーツケースを閉じた。

作業を終えると母は、ため息を吐くかのように一度大きく息を吐いた。虚ろな眼でそのスーツケースを見つめる。そして母は後ろを振り返り、自分の後ろに立つ真尋に視線を向けた。

「真尋・・・」

真尋は母の視線を真正面から受け止めた。二人の視線が絡まる。そこには何の言葉も交わされることはなかったけど、だけどそれでもそれぞれの意思が、感情がその視線を通して交わされていた。少なくとも真尋にはそう感じた。

母は体を真尋の方に向け、そして真尋の両肩を両手で掴む。

その手には痛いくらいの力が込められていた。

「真尋。何もなかったの」

「・・・」

「何もなかったの」

「・・・」

「だから、あなたも忘れなさい」

なぜ母はこんなことをしたのだろう。

なぜ母はこんなことを真尋に言ったのだろう。

もしかしたら、自分の娘を見殺しにしてきたことに対する、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。

母は真尋の両肩から手を離し、すくっと立ち上がった。そして身支度をし始めた。もう真尋に視線を向けることもなかったし、真尋に声をかけることもなかった。

服をパジャマから洋服に着替え、上にカーディガンを羽織った母は、スーツケースを手に引き、黙って部屋から出て行った。

部屋を出ていく母の姿を、真尋は無表情のまま見つめ続けていた。

 

 

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