創作ノート

短編小説を書いています。

2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

隠語(完)

エピローグ 深夜の街を、一人の男が歩いている。 仕事帰りのサラリーマンの姿もすでに路上には見えず、街はひどく閑散としていた。 彼は、会社を辞める後輩の送別会に行った帰りだった。 本当は一次会で帰る予定だったが、その後輩に、 「先輩もぜひ二次会に…

隠語(12)

もし田代が嘘をついているのだとしたら、田代は5月10日の深夜に、居もしない乗客を乗せてタクシーを賃走にしたことになる。そして、後部座席に誰もいないタクシーの中で、タクシー本部に、 「カバンの忘れ物あり」 という無線連絡をしたことになる。 石川…

隠語(11)

田代がK町派出所に姿を見せたのは、深夜の1時12分だった。 その時、K町派出所には松永巡査長と藤田巡査がいた。同じくK町派出所に勤務する片岡巡査は、N交通からの110番通報を受けて見回りに出ていた。 松永巡査長の証言では、その時の田代は、何かを…

隠語(10)

2 石川英二は、目の前のマジックミラーを覗き込む。 マジックミラーの向こう側に、小さな部屋が見えた。 6畳くらいの殺風景な部屋の中央に一つの机が置かれている。そしてその机の向こうには、こちらを向くようにして一人の男が座っていた。目の下には深い…

隠語(9)

田代は唖然としながら、先ほどの佐々木の言葉を繰り返していた。 「何も、聞こえなかった・・・」 佐々木は確かにそう言った。 これほどの音が聞こえない訳がない。 ガンッ、ガンッ、ガンッ。 田代のすぐ横で、女は依然として包丁の柄を窓ガラスに打ちつけ続…

隠語(8)

逃げなくては。 窓ガラスに執拗に包丁の柄を打ちつけ続ける女を見つめながら、茫然とした頭の中でそのことだけは認識することができた。 ここから、逃げなくては。 この女から、逃げなくては。 田代は震える指で、エンジン起動用のプッシュボタンを押す。だ…

隠語(7)

女は再び右手を振り上げる。そして窓ガラスに包丁の柄を振り下ろした。先ほどと同じようなガンッという音が車内に響く。 田代は大きく目を見開いて、その女の様子を見つめていた。 自分の身に何が起きているのか分からなかった。ただ茫然となりながら、口を…

隠語(6)

エンジンをかけようと、ハンドル横に設けられていたエンジン起動用のプッシュボタンを押す。だけど、車の前方からキュルキュルという音がするだけでエンジンは掛からなかった。何度か押してみる。やはりエンジンは掛からない。 「くそっ」 田代はプッシュボ…

隠語(5)

確かに、自分は早とちりをしてしまっていたのかもしれない。 佐々木の先ほどの言葉を思い出して、田代は急に不安になった。タクシーはキーを挿したままだ。誰かに乗り逃げされてしまったら、それこそ目もあてられない。それでタクシーを壊されでもしたら、費…

隠語(4)

田代は、夜の街を走った。 自分がどこに向かって走っているのかも分からなかった。ただ、タクシーから少しでも遠くに離れたかった。そしてあの女から少しでも遠くに離れたかった。あの女から逃げろ。田代の本能がそう命令していた。 バス通りから離れるよう…

隠語(3)

再びタクシーの中を、沈黙が満たす。 依然として、背後からシューシューというような耳障りで気味悪い呼吸音だけは小さく聞こえ続けていた。 何なんだ。 この女は一体何なんだよ。 ハンドルを握りながら田代は必死になって考えていた。 コートの手前について…

隠語(2)

女性はそれほど興味があるわけでもないのか、その隠語についてそれ以上訊いてくることはなかった。 田代は気を取り直して前方に集中する。 ちらちらと横目でメーターを確認する。大丈夫だ。法定速度はしっかりと守っている。 一か月前に、昼寝をしようと路肩…

隠語(1)

1 田代勇輝は、O街道をタクシーで走っていた。 時刻は午前0時を回っており、流石にO街道を走る車の量は減ってきている。道路の脇の歩道には、人通りは全く無くなっていた。 先ほど長距離の客をM駅で拾って30分くらいの距離にあるW町まで乗せて行き、そし…

閉じ込められた部屋(完)

エピローグ 美和は、人通りの絶えた静かな住宅街を、真尋と二人並んで歩いていた。 空は夕陽で茜色に染まり、電信柱がその茜色の空を背景に佇んでいる。夕飯の準備をしているのだろう、近くの家からおいしそうな匂いがする。ある家のリビングからは、子供達…

閉じ込められた部屋(84)

真尋は目を開けた。 見知らぬ白い天井が自分の上に広がっていた。 「ここは・・・」 ひどく掠れた声だった。 白い天井。 最近、同じような光景を見た気がする。 「真尋・・・」 すぐ横から声が聞こえた。 その白い天井の片隅に、誰かの顔がぼんやりと見えた…

閉じ込められた部屋(83)

自分の中で生まれた一つの決意を、真尋はそっと胸に抱いた。 水位は上がり続けていて、もう完全に真尋の足は床に付かなくなっている。何とか、立ち泳ぎをしながら顔を水面の上に出していた。だけど、その状態でどれだけ持ちこたえることができるのか分からな…

閉じ込められた部屋(82)

真尋は、あの夜の自分自身を思い出していた。 そして、あの夜から今の自分につながる14年間という時間を思い出していた。 あの夜の6歳の真尋は、自分の存在を理不尽に踏みにじってくるものに対して必死になって抵抗した。必死になって抗った。 そしてあの…

閉じ込められた部屋(81)

とうとう完全に足が付かなくなった。 必死になって顔を水の上に出し、呼吸をしようとする真尋の口に、水が流れ込む。 真尋はげほげほと咳き込んだ。それでも立ち泳ぎのような形で何とか顔を水面の上に出して、息をする。そして 「苦しいよ・・・。ここから出…

閉じ込められた部屋(80)

そうだ。あの日に感じた暖かさに似ている。 真尋は自分の右手を見つめた。 「お母さん・・・」 真尋は呟く。だけど、耳に聞こえるのは“放水口”から流れ落ちる水の音だけだった。その言葉に答えてくれる人は誰もいなかった。 あの日、母は黙って自分の手を握…

閉じ込められた部屋(79)

その時だった。 右手を誰かに強く握られたような感触を感じた。 そして同時に、その右手を上に引き上げられるような感覚を覚えた。 何? 何が起きたの? 驚いた真尋は力を抜いた足先に再び力を戻す。爪先立ちで水の中に立ち、何とか自分の顔を水面から出した…

閉じ込められた部屋(78)

10 真尋は閉じ込められた部屋の中にいた。 “放水口”からは依然として大量の水がこの部屋の中に流れ込んでいる。この小さな部屋の中に満たされていく水はその水位を上げ続け、すでに真尋の体をすっぽりと覆い尽くしていた。 先ほど何度も開けようと試してみ…

閉じ込められた部屋(77)

「真尋・・・」 美和は、ベッドの上の真尋に声をかける。 だけど真尋はその声には反応せずに、また、 「・・・なさい」 と呟いた。夢遊病者のように眼は閉じられていて、そして顔には生気がなかった。何かがおかしい。 「・・・なさい」 「どうしたの。真尋…

閉じ込められた部屋(76)

その日も美和は真尋の病室にいた。 カバンの中から、先ほどデパートで買ってきたハーバリウムを包んだ袋を取り出す。丁寧にテープを剥がしてその袋に入っている瓶を取り出すと、美和の目に鮮やかな黄色が映し出された。 イエローサルタンという黄色の花が入…

閉じ込められた部屋(75)

二日ぶりに入った真尋の病室は、それまでと全く変わらない同じ時間が流れていた。 窓際のベッドに真尋は寝ており、他の三つのベッドは依然として誰もいない。窓は薄手のカーテンが引かれていたのだけど、その隙間から差し込む穏やかな春の午後の日差しが、部…

閉じ込められた部屋(74)

佐藤健太郎が映っている写真は、あの夜のあとに全部捨てた。 佐藤健太郎に関わるものを、自分と真尋の周りから全て消し去りたかった。 美和と真尋が映ったこの一枚の写真も、他の写真と一緒に捨てようかと思った。だけど、どうしても捨てることができなかっ…