創作ノート

短編小説を書いています。

エクリプスリアルム(14)

 

翌朝9時前に、無事にマルシェ・アンジュに動画を納品し終えると、有希は一度大きく息を吐いた。

納期直前になって新しいシーンを撮影して動画に追加するということもあったけれど、納期前日の夜遅くまで動画の最終仕上げを行なって、今回も何とか納期通りに納品することができた。

担当者の松本美和との打ち合わせの中で擦り合わせたイメージ通り、あるいはそれ以上の動画ができたという手応えもあって、有希の中に一つの達成感が湧き起こる。この仕事をする上でのモチベーションの一つとして、有希はその思いを大切にしていた。

かと言って、のんびりしているわけにもいかない。

次の仕事はもう、口を開けて有希を待ち受けているのだ。

有希はスケジュールソフトを立ち上げて、今日の予定を確認する。午後3時から藤乃屋の担当者である鈴木健一との打ち合わせが入っていた。

藤乃屋は宮城県S市にある、創業100年以上を誇る老舗旅館だ。和の趣あふれる客室と、心のこもったおもてなしが自慢で、近年では外国人観光客の受け入れにも力を入れていた。

ただ、外国人観光客の予約件数が伸び悩んでいる。旅館の魅力を外国人観光客に訴求できる動画コンテンツが欲しい。英語字幕付きの動画制作を依頼したい。それが藤乃屋の依頼内容だった。

有希はクライアントと打ち合わせをする際は、できるだけ依頼元の会社に自分の足で出向くようにしている。その場所で働く人たちを実際に自分の目でみることで会社の空気というものを感じたり、担当者と顔を合わせて話をする中で、その担当者の言外のニュアンスを掴むためだ。有希は、よりよい動画を作る上で、そのようなものが重要だと考えていた。

ただ、マルシェ・アンジュのように関東近県にある会社であれば、東京に住む有希は気軽に出向くことができるが、藤乃屋の宮城県S市のような場所だとそれほど気軽に行くというわけにもいかない。藤乃屋とのやり取りは、これまではweb会議やメールで行っていた。

午後2時50分になると、有希は、打ち合わせが行われるweb会議システムのアドレスにアクセスした。打ち合わせ開始時間の午後3時までまだ10分もあるせいか、鈴木はまだそのアドレスにアクセスはしていなかった。

チーム内の打ち合わせは遅れることがあっても、クライアントとの打ち合わせは必ず10分前までには出るようにしている。これも、フリーとして信用を第一に考える有希なりの掟だ。

午後3時5分になって、鈴木がweb会議に入ってくる。

「いやあ、すみません。ちょっとトラブルがあって、web会議に入るのが遅れました」

鈴木はハンカチで汗を拭きながら、それでいてどこかのんびりとした口調で言葉を口にする。

鈴木は藤乃屋の営業部課長という立場だ。画面の向こう側の鈴木はきっちりとスーツとネクタイを身につけ、どこかのセールスマンのような風体だった。

「いえ、大丈夫です。それよりトラブルの方は大丈夫ですか?」

「いやなに、大丈夫です。旅館をやっていると色々とあるんですよ」

「そうですか……。それでは今日の打ち合わせの内容についてなのですが……」

有希はその“色々”に特に触れることもなく話を進める。話好きの鈴木は少し物足らないような目でこちらを見ていたが、有希は気にせずに話を進めることにした。

前回の打ち合わせでは、鈴木に色々と話を振ったせいで話が脱線してしまい、打ち合わせが予定時間よりもだいぶ長くなってしまっていた。そのような世間話も有希は大切にしていたのだが、今日は決めなければならないことが色々とある。まずはそこを片付けたかった。

制作する動画の内容やイメージについてはすでに有希と鈴木との間で擦り合わせは終わっている。今回の動画は、当然、藤乃屋そのものの映像が重要になる。その撮影は一日いっぱいを予定していて、その撮影スケジュールを藤乃屋側と詰める必要があった。

「それで、私たちが撮影のため藤乃屋様にお伺いする日にちを決めさせていただきたいのですが」

「そうですね。わかりました」

鈴木は背広の内ポケットから手帳を取り出す。

「6月17日はどうでしょうか?」

今日が6月13日なので、17日は四日後だ。

頭の中で素早く計算する。

四日もあれば、藤田の方での撮影に向けての準備も十分だろう。

併設モニターに表示しておいたスケジュールソフトに目をやる。

そのスケジュールソフトでは有希だけではなく藤田と優奈の予定も見えるようになっていて、それぞれのスケジュールが共有できるようになっている。6月17日は有希も藤田も一日空いていた。

「はい。6月17日で大丈夫です。私と、カメラマンの藤田が伺います」

撮影は基本的には藤田一人で行ってもらうことも多かったが、今回は実際に現地を見ながら撮影内容の詳細を決める必要がある。それもあってディレクターを兼ねる有希も同行することにしていた。

それ以外の細かい段取りを鈴木と擦り合わせてから、その打ち合わせを終えた。

時計を見ると午後3時30分ちょうど。

予定通りに終わった。

有希は「よし」と一言口にしてから、次の仕事に取り掛かった。

 

 

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