創作ノート

短編小説を書いています。

エクリプスリアルム(30)

 

有希は美咲の部屋の中に視線を戻す。

まず始めに、デスクの上に閉じられた状態で置かれているノートパソコンが目に止まった。

これが、5月29日の夜に美咲が見ていたというノートパソコンだろうか……。

有希は静かにデスクに歩み寄る。

いけないことだと分かっていながらも、ノートパソコンを開く。ノートパソコンには電源コードは接続されたままになっていたが、電源自体は入っていなかった。有希は心の中で、“美咲、勝手にパソコンの電源を入れて、ごめんなさい”と謝りながら、その電源ボタンを押した。

ディスプレイにメーカー名が大きく表示され、パソコンが立ち上がる。

やっぱり、そうか……。

メーカー名に引き続いてディスプレイに表示されたログイン画面が、有希にパスワードの入力を要求していた。美咲のパソコンのログインパスワードを有希が知っている訳がない。試しに美咲の誕生日の日付を入力してみたが、画面には“パスワードが違います”という表示が出てくるだけだった。

もしかしたら……。

有希は別の数字を入力する。それは有希の誕生日の日付だった。一抹の可能性を信じて、エンターキーを押す。だけどやはり、“パスワードが違います”という冷たい表示が出てきただけだった。

試しに他にもいくつかの数字を入れてみるが、ログインすることができない。この短い時間でパスワードにたどり着けるとも思えなくて、有希はパソコンの電源を落として、ノートパソコンのディスプレイを閉じて元の状態に戻した。

次に有希は、視線をデスクの上に置かれた他の物に移していく。

デスクの上にはノートパソコンの他に、左隅に卓上カレンダーが、そして右隅にフォトフレームが置かれていた。

フォトフレームは二つあった。

一つには美咲と明子の母子が写っている。美咲が学校の制服を着ている。美咲の高校時代に写したものだろうか。そしてもう一つには、美咲と有希と奈緒の三人が写っていた。

有希はその写真をじっと見つめる。

その写真を撮った時のことは今でもよく憶えている。

大学四年の時に卒業旅行を兼ねて、三人でイギリスに旅行に行ったのだ。その時は本当に楽しかった。その時のことがまるで昨日のことのように思い出される。写真はその際に、セントパンクラス国際駅の前で、通行人に慣れない英語で頼み込んで撮ってもらったものだった。

二枚の写真とも、美咲は全く陰の無い笑顔をカメラに向けていた。

次に有希は、デスクの左隅のカレンダーに視線を転じる。

どこにでもあるようなありふれたデザインの卓上カレンダーだった。カレンダーは月めくりのものだったのだけど、2024年5月のままになっていた。

あれ……?

カレンダーに書き込まれた一つの文字が、有希の目にとまった。

カレンダーの5月31日の欄に、震えるような文字で“23時13分”と書かれていた。

有希は美咲が事故に遭った時刻は聞いていない。だけどおそらく、エクリプスリアルムで予言された美咲の事故の時刻は23時13分だったのだろう。自分の死のタイムリミットを、どのような思いでカレンダーに書き込んだのか。自分の未来の死の予言に怯えながらも、それでもそのタイムリミットまでになんとか自分が救われる方法を探そうと、何かに必死に祈るような思いでその時刻を書いたのかもしれない。

有希はしばらく、その震えるような文字を見つめていた。

デスクの左右に分かれた二つの世界。

右のフォトフレームには美咲の幸福が溢れ、左のカレンダーには美咲の絶望と悲しみが滲んでいる。とても同じ世界の出来事には思えなかった。この二つの対照的な世界が、美咲の身に起きた悲劇を表しているようで、見ていて胸が張り裂けるような思いだった。

デスクの上には他に目につくようなものは無かった。

有希は次に、デスクの横の本棚を確認していく。

一番下の列には女性誌が並んでいて、中央の列には、美咲の趣味だったアクセサリー作りやお菓子作りの本が並んでいる。一番上の列には、仕事のために勉強していたのだろう、商社について書かれた本がいくつかあった。有希はいくつかの本を抜き取ってパラパラと捲ってみるが、特に注意を引くようなものは何もなかった。ただ、仕事熱心な一人の若い女性の本棚があるだけだった。

有希はベッドの上やその下までも調べていく。だけど、エクリプスリアルムの運命を変えるために手掛かりになりそうなものはどうしても見つからなかった。

これ以上この部屋に居続けると、明子に不審に思われてしまう。

美咲はノートパソコン以外に、何も手掛かりを残してはいないのかもしれない。ノートパソコンにログインできない以上、もう他に探すところは無かった。

有希は部屋の中をこれ以上探すことを諦め、部屋を出ようとドアに歩み寄る。

そのとき、背後から美咲の声が聞こえた気がした。

立ち止まって、部屋の中を振り返る。

だけど有希の目に映ったのは、先ほど見ていた部屋と全く同じ部屋の光景だった。先ほどと同じように、美咲はデスクの上のフォトフレームの中から、こちらに笑顔を向けていた。

その写真が視界の片隅に映って、美咲から話しかけられたような錯覚を覚えたのかもしれない。

有希は首を横に振る。自分の死の未来に怯えるあまり、有希自身の精神状態もおかしくなっているのかもしれない、と思った。

 

 

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