創作ノート

短編小説を書いています。

エクリプスリアルム(31)

 

そして、それも仕方のないことかもしれない、とも思った。

この美咲の部屋で手掛かりが見つからなかったら、自分一人の力でエクリプスリアルムの謎を解くための手掛かりを探さなくてはならなくなる。広大なインターネットの海の中で、美咲が見つけたはずのその手掛かりが簡単に見つかるとも思えなかったし、何よりも有希に残された時間はあまりに少なすぎた。自分はあと二日後に、見知らぬ男にナイフで刺されて殺されてしまうのだ。焦りと絶望で、有希の心は壊れかけていた。

有希は小さく溜息を吐く。

そして、フォトフレームの中の美咲から視線を引き剥がして、夢遊病者のような緩慢な動きで、再びドアの方に体を向ける。右手を差し出しドアノブを握る。だけどその右手は動かなかった。

先ほど目にした、美咲の笑顔……。

最後に目にした美咲の写真が、どうしても気になって仕方がなかった。なぜだろう。自分でもわからない。理由は自分でもうまく説明できなかったのだけど、その写真の中の美咲が、有希に何かを訴えかけているような気がしてならなかった。

有希はドアから離れ、デスクの前に歩み寄る。そして、三人が写った写真を手に取った。

あれ……?

有希は違和感を感じた。

フォトフレームには写真しか入っていないはずなのに、やけに重たい。急いで裏を返してみると、フォトフレームの裏に、後から付けられたかのようなプラスチックの蓋が付いている。有希はもどかしい思いで、その蓋の隅に爪を差し込んで無理やり開く。すると中に、一冊の小さなノートが入っていた。

表紙と裏表紙は鮮やかな空色で、ノートに付属しているゴムバンドで閉じられている。そのノートを手にとって表紙を見ると、そこには“2024年4月11日〜”と書かれていた。

「これは……もしかしたら……」

ゴムバンドを外し、表紙を開く。

ノートの一ページ目は美咲の几帳面な文字で埋められていた。

有希は逸る気持ちを抑えながら、その一ページ目に目を通す。そこには次のように書かれていた。

 

4月11日(水)

今日も朝から雨だった。ここ数日雨が続いている。

昨日、上司から厳しく叱られた。

プレゼン資料のミスを指摘され、チーム全体の足を引っ張ったとまで言われた。確かに私のミスがあったのだけれど、そこまで言われるほどひどい内容だったとは思わない。

今日は会社に着くと、すぐにそのプレゼン資料の直しをしていた。

昨日のことが思い出されて、悔しくて涙が出そうだったけど、何とか耐えた。周りの同僚に心配かけたくないし、何よりも弱音を吐いている暇なんてない。

それでも、どうしても心が晴れなかった。こんなことでは駄目だと自分に言い聞かせてみても仕事に集中できなかった。ミスを挽回するために頑張ろうと決意しても、頭の中が真っ白になってしまう。

こんな時に、誰かに話を聞いてもらえたら……。

大学生の時は、いつでもすぐそばに私の話を聞いてくれる友達がいたのに、会社の中は皆が競争していて、誰かの失敗を心のどこかで喜んでいるような気がして、誰にも頼れない。でもこれも私が選んだ道だ。一人、黙々と仕事に取り組んでいた。

気がついたら、もう夜の19時過ぎだった。一日大変だったけど、頑張ったおかげでプレゼン資料も何とか完成することが出来た。これであれば上司も納得してくれるはず。

仕事を終えて会社を出ると、雨がやんでいた。

空を見上げると、綺麗な月が浮かんでいる。

なんだか、その月に救われた気がして、気持ちが少し軽くなった。

明日も頑張ろう。

どんなことがあっても、前向きに進んでいこう。

きっと、大丈夫。

 

美咲が書いた日記だった。

有希は、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。だけど、この部屋でこの日記をゆっくりと読んでいる時間はなかった。有希はフォトフレームの中の美咲に、

“ごめん、美咲。この日記、借りるね。後で必ず返すから”

心の中で語りかけてから、肩から下げていた黒いバッグの中にその日記を入れた。

ちょうどその時、ドアをノックする音が聞こえた。

「山下さん、大丈夫ですか」

ドアの向こう側から明子のくぐもった声が聞こえる。なかなか部屋から出てこない有希のことを心配したのかもしれない。

有希は、「すみません。大丈夫です」と声をかけてから、部屋のドアをゆっくりと開けた。ドアの前には、泣きそうな顔をした明子が立っていた。美咲の部屋を見せてくれたことに対して丁寧に感謝の言葉を述べ、有希は明子といっしょに居間に戻った。

居間ではもうお互いに話すことも無くしていた。その隙間を埋めるように、申し訳程度にお互いの近況を話したりしていたのだけど、有希は気も漫ろだった。早く、美咲の日記が読みたかった。

「そろそろ、私はこれで……」

有希はソファから立ち上がる。

「今日は、本当にありがとうございました」

明子に向かって深々と頭を下げた。

明子は玄関まで有希を見送り、そして玄関口に立つ有希に向かって、

「また、いつでもいらして下さい。美咲も喜ぶと思いますから」

と言った。

有希は「はい」と小さな声で言って、明子に向かって頭を下げる。

右手は無意識のうちに、左肩から下げているバッグを抑えていた。そのバッグの中には、美咲の部屋で見つけた、あの日記が入っていた。

 

 

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