美和は、サイドボードの上に置かれたバーバリウムを見つめていた。
ピンク色のバラが透明な液体の中に浮かんでいる。
そこに、窓から差し込む日差しが当たり、きらきらと光っていた。
そのバーバリウムは、昨日、病院からの帰りに美和がデパートで買ってきたものだった。そしてつい先ほど、真尋が眠るベッドの横の、サイドボードの上に置いたのだ。これ一つあるだけで、病室に色が生まれたように感じた。
4月10日の午前中の病室は、まるで時間が止まったかのように緩やかに時間が流れていた。
美和は、バーバリウムから、ベッドの上の真尋の顔に視線を移す。4月7日の夜に病院に運び込まれた真尋は、青白い顔のままその日も眠り続けていた。
美和は、ふうと小さく息を吐く。
昨日森田医師から聞かされた言葉を思い出す。
「真尋さんは何らかの理由で、自分で薬物を過剰摂取しました。もしかしたら、真尋さんがオーバードーズをした理由と何か関係があるのかもしれません」
真尋が自殺を図った理由。
美和には、真尋が6歳だった、あの夜のことしか思い当たるものはない。
でも、今になってなぜ。
そのことが不思議だった。
真尋はあの夜のことを記憶の底に封印するように生きていた。真尋の心の中で何が起こっていたのか、美和には分からない。いつしか、6歳以前の記憶がまるで無くなってしまったかのように振る舞い始めた真尋を見て、美和は特に何も言わなかった。
真尋がその記憶を封印するのであれば、それでも構わないと思った。それが真尋がこの世界を生き抜くために見出した方法なら、美和自身もその真尋が作り出した世界の中で生きようと思った。真尋のために。それが、美和自身の真尋に対する贖罪なのだと信じた。
私は、6歳の真尋を見捨てたのだ・・・。
あの夜が来るまで、父親から虐待を受けている真尋に救いの手を差し伸べることはしなかった。見て見ぬふりをし続けた。この壊れかけた家族を守るためには、そうするしかない。必死になって自分自身にそう言い聞かせていた。見て見ぬふりをすることによって、その現実がいつか本当に消え去ってくれる。そう信じた。
美和は自嘲を口に微かに浮かべて、首を小さく横に振る。
違う・・・。
私が守りたかったのは家族ではない・・・。
私が守りたかったのは、私自身だ・・・。
私はただ、私自身の未来が闇に閉ざされるのが怖かっただけだ・・・。
私はただ、真尋を見捨てることによって私自身を守りたかっただけだ・・・。
そんな卑怯者だったんだ・・・。
それが6歳の真尋をどれだけ傷つけたのか。
6歳の真尋をどれだけ絶望させたのか。
美和には分からなかった。
家族を、そして何よりも自分自身を守ることに精一杯だったその時の美和は、真尋の絶望に気づいてあげることはできなかった。真尋を絶望から救い出してあげることができなかった。
そしてあの夜がやってきた。
「どうして、私を助けてくれなかったの?」
「どうして、私を見殺しにしたの?」
あの夜、そのような叫びながら泣きじゃくる真尋を見て、美和は初めて真尋の中の絶望に気づいた。そして、真尋をこの絶望から救い出してあげなければならないと、強く思った。そこに理由なんてなかった。
美和は何かに追い立てられるように、押し入れの奥からスーツケースを引っ張り出していた。
だけど、全てが手遅れだった。もう時間は巻き戻すことはできなかった。
あの夜に、真尋も、そして美和自身も罪を抱えて生きることを運命づけられたのだ。
「ねえ、真尋・・・」
美和は、ベッドの上で眠り続けている真尋に言葉をかける。
「あの夜、私も、必死になってあなたを守ろうとしたんだよ・・・」
真尋は答えない。美和は構わず言葉を続ける。
「だけど、私は、あなたを守ることなんてできていなかったのかもしれない・・・」
「・・・」
「だって、結局、このようなことになってしまったのだから・・・」
「・・・」
「真尋・・・」
「・・・」
「20歳のあなたは、何に絶望してしまったの?」
「・・・」
「6歳のあなたがこの世界に絶望したように、20歳のあなたも、同じようにこの世界に絶望してしまったの?」
「・・・」
真尋は依然として、青白い顔のまま眠り続けていた。