そうだ。
あの夜、母はスーツケースを持ってどこかに出かけて行った。
そしてその早朝に母は帰ってきた。
母が家を出る時に、真尋にこぼした言葉、
「真尋。何も無かったの。何も無かったのよ。だからあなたも忘れなさい」
その言葉がまざまざと真尋の中で蘇る。
この言葉はどのような意味だったのだろうか。真尋の頭に蘇ったのは、その言葉を真尋に向かって言い放つ母の姿だけだった。その言葉がどうして母の口からこぼれ出たのか。その言葉の裏に、どのような現実が隠れているのか。真尋にはどうしても思い出せなかった。
ただ、
「何も無かった」
とわざわざ言ったのだとしたら、それは、何かがあったということなのではないのか。本当に何も無かったら、わざわざ「何も無かったの」と自分の娘に言うはずがない。
そして、家に帰った母はスーツケースをその手には持っていなかった。そのスーツケースをどこかに運ぶ必要があったということなのだろうか。
そもそも、あのスーツケースの中には、何が入っていたのだろう・・・。
そのとき真尋の中で、母に関する別の記憶が顔をのぞかせ始める。
それは、真尋が小学生の頃、母に自分の父親について尋ねた時に、母が真尋に投げつけるように呟いた、
「真尋にはママがいるから、パパは必要ないでしょ・・・」
という言葉だった。その時に真尋に見せた能面のような冷たい表情だった。
そして、高校生の時に戸籍謄本の中に見た、私の父の欄に記載された「除籍」の文字。それに引き続いて記載された「失踪宣告」と「差出人 佐藤美和」の文字だった。
真尋の中で、それらの記憶が重ね合わされていく。
もしかして・・・・、あのスーツケースの中には・・・。
母が・・・、父を・・・。