そうだ。あの日に感じた暖かさに似ている。
真尋は自分の右手を見つめた。
「お母さん・・・」
真尋は呟く。だけど、耳に聞こえるのは“放水口”から流れ落ちる水の音だけだった。その言葉に答えてくれる人は誰もいなかった。
あの日、母は黙って自分の手を握ってくれた。
一緒に歩き続けてくれた。
だけど、黙って歩く母の胸の内にはどんな思いが溢れていたのだろうか。
それまでの真尋は、自分のことしか考えていなかったことに気づいた。
母の思いなんて、想像しようともしていなかった。そしてただ自分が目の前の現実から逃げることしか考えていなかった。
あの日、黙って歩いていた母の胸のうちにあったのは、人生に対する絶望だったのだろうか。あるいは未来に対する悲嘆だったのだろうか。もしかしたら、突然暗闇に包まれてしまった未来に、呆然と立ちつくすような思いだったのかもしれない。
それでも、母は自分の手を握ってくれたのだ。
そして一緒に歩き続けてくれたのだ。
「お母さん・・・、ごめんなさい」
真尋は自分の右手を見つめながら、呟いていた。
背伸びをするようにして伸ばし続けている足首が痛くなる。そろそろ真尋の顔を水が覆いかけていた。それでも顔を上に向け、必死になって顔を水の上に持ち上げた。
あの日、夕日に染まる住宅街を真尋と一緒に歩き続けた母は、結局最後まで何も言うことはなかった。そのまま二人とも黙って歩き続け、そして家にたどり着いた。
だけど一緒に歩きながら真尋は、本当は、母の言葉が聞きたかった。
自分の思いを、娘に向けて、言葉という形のあるもので伝えて欲しかった。
その時の思いが真尋の中に蘇る。
でも、あの日、私はどんな言葉が欲しかったのだろう・・・。
どんな言葉をかけて欲しかったのだろう・・・。
真尋の目には、この小さな部屋の天井が映っている。
コンクリートの打ちっぱなしのような灰色の天井。その天井のどこかに、自分の今の問いかけの答えが書かれていないか。それを必死になって探すかのように、その天井を見つめる。だけど、そのどこにも答えなんて書かれていなかった。
“真尋”
「え?」
誰かの声が聞こえた気がした。
だけど、すでに耳は水に浸かっている。声なんて聞こえるわけがなかった。
“あなたは十分に苦しんだ。もう、謝らなくてもいいのよ”
母の声だった。耳からではなく、心に直接響くかのように、真尋の中に母の声が響いていた。
「ねえ、お母さん? どこにいるの?」
真尋は必死になって声を上げる。
「私を許してくれるの? 私はあんなことをしたのに。あんなにもお母さんを苦しめたのに。それなのに、そんな私を本当に許してくれるの?」
母の囁くような声が、また真尋の心に聞こえた。
“たとえこの世界があなたを許さなくても・・・、私は・・・、私だけは、あなたを許すから・・・”
ああ、そうだったんだ。
真尋は凍りついた心が溶けていくのを感じた。
私はただ、誰かに許して欲しかっただけだったんだ・・・。
誰かに、
「あなたを許す」
と言って欲しかっただけだったんだ・・・。
そして、誰かに、
「あなたは生きていてもいいんだよ」
と一言言って欲しかっただけだったんだ・・・。
その一言さえあれば、どんなにこの世界はつらくても、どんなに絶望に溢れていても、きっとこの世界を生きていくことができたんだ・・・。