父はそれを“しつけ”と呼んだ。
その日も家で気に入らないことがあったのか、父は朝から家でビールを飲み続けていた。何が気に入らなかったのかは分からない。きっと取るに足らない些細なことだったのだと思う。
そして冷蔵庫のビールが無くなると、いつもと同じように母に赤黒い顔を向けて、
「ビールを買って来い」
と命じた。
母は財布を持って黙って家を出ていった。
狭い居間には父と真尋しかいなかった。真尋はその居間の隅に座って、目の前の時間が過ぎていくことをひたすら願っていた。だけどその日はいつもとは違い、そのまま目の前の時間が過ぎていくということは無かった。
父は、部屋の隅に座っている真尋に濁った目を向けた。そして真尋に向かって、
「お前、俺を馬鹿にしてんだろ・・・」
低い声で吐き捨てるように言った。
「俺のことを、くだらない人間だと思ってんだろ・・・」
真尋は驚いて父の顔を見つめ、そして震えるように首を横に振った。だけど父はそんな真尋の様子を見て、さらに怒りを募らせたようだった。
「そこに立ちなさい」
「え?」
「いいから、そこに立て」
父は乱暴に、自分の目の前を右手で指した。
真尋は黙って父の前に立つしかなかった。
そして“しつけ”が始まった。
小心者で卑怯な父は、真尋の顔に痣や傷が残るようなことは決してしなかった。それをしてしまうと、それを見た第三者が児童相談所に通報するかもしれない。そして外部に自分のやっていることがばれてしまうかもしれない。そのことをひたすら恐れていた。だから服で隠れる箇所を執拗に狙った。
その日以降、父の中で何かが変わったのか、その“しつけ”は何度も繰り返されるようになった。
真尋は体に痛みが走る度に歯を食いしばって耐えた。
心の中ではひたすら、
今、ここに立っているのは私ではないんだ・・・。
今、ここに立っているのは私ではないんだ・・・。
自分に言い聞かせるように呟き続けていた。
そのうち、ここに立っている自分の体が、本当に自分のものではないような感覚を覚えるようになった。父とその前に立つ一人の子供。その二人を外から見ているもう一人の自分。
きっと、そうすることで自分自身に、“今ここにいる惨めな子供は自分ではないんだ。自分以外の誰かなんだ”と信じさせようとしていた。そうでもしないと、真尋は目の前の現実を生きる術を見出すことができなかった。
なぜ父はあんなことをしたのだろうか。
きっと、自分より弱い存在を作りたかったのだと思う。そしてそれを一つの事実として確認したかったのだと思う。そうして、自分よりまだ下にいる誰かを作ることで、何とか自分の尊厳を守ろうとしていた。
そんなちっぽけな尊厳のために犠牲にならなければならない自分を、真尋はひどく哀れに感じた。