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真尋の父親は“佐藤健太郎”という名前だった。
父は、いつも家で酒を飲んでいるような人間だった。
父がどのような仕事をしていたのか、幼かった真尋には分からない。
ただ、仕事で少しでも自分の思ったように進まないことがあったら、そして少しでも嫌なことがあったら、父はそれを全て家の中にぶつけた。小心者の父はそれを外に向けて出すことは決してしなかった。
外面だけは病的なほどに気にしていて、外では自分の感情を誰かにぶつけることなんてなかったし、感情が爆発するなんてこともなかった。必死になって“家族思いの父親”を演じていた。だから、会社の同僚などは、父のことを本当に“家族思いの父親”だといまだに思っているのかもしれない。
その代わり、家で少しでも気に入らないことがあると、一瞬でその表情は変わった。ドス黒い般若の面のような顔。父は黙って立ち上がり、冷蔵庫にあったビールを取り出す。そしてそれを居間に持ち込み、そのビールを飲みながら、ひたすら、
「ふざけやがって・・・」
と呟き続けるのだ。
冷蔵庫にあったビールを全て飲み尽くすと、低いしわがれた声で母に、
「ビールを買って来い」
と命じる。
母がビールを買うために黙って家を出ていくと、家には父と真尋だけが取り残された。
その当時、真尋の家族が住んでいた東京都K区の家は狭いアパートで、当然、真尋の部屋なんて無かった。
真尋は、父の怒りがこちらに向けられないように祈りながら、居間の隅で黙って座っていた。
父は物に当たるということは無かったし、母に暴力を振るうのも真尋は見たことはない。きっと、もし物に当たったらその物音が隣の部屋に響いてしまい、通報されてしまうことを恐れていたのだと思う。そして母に暴力を振るってしまうと、母という一人の大人を介して自分のもう一つの顔が外に対して露わになってしまうことを死ぬほど恐れていたのだと思う。
ビールを飲み続けていても、そこの計算だけはするような卑怯な人間だった。
父が外の世界に向ける“家族思いの父親”の顔。
それと同時に内の世界に向ける般若の顔。
その全く二つの顔が父という一人の人間に同時に存在するということが、真尋には単純に怖かった。真尋には理解できない、父の内面に潜む得体の知れなさが怖かった。
父は父で、自分の中でその相反する二つの顔を共存させることで何とか自分の自我を保っていたのかもしれない。
その二つの顔のうちで、どちらが本当の父の顔だったのか。
真尋には分からなかった。
きっと、父自身にも分からなかったのだと思う。