その時だった。
右手を誰かに強く握られたような感触を感じた。
そして同時に、その右手を上に引き上げられるような感覚を覚えた。
何? 何が起きたの?
驚いた真尋は力を抜いた足先に再び力を戻す。爪先立ちで水の中に立ち、何とか自分の顔を水面から出した。そして自分の右手を水面の上に出して、その手を見つめた。何の変わりもない、いつもの自分の右手だった。だけど、これまで冷たい水の中に浸かっていたはずなのに、その右手に暖かさを感じた。その暖かさに、なぜか懐かしさを感じた。
これは・・・。
なぜ懐かしさを感じたのだろうか。自分は、これまでの人生の中でこの暖かさを感じたことがあったのだろうか。必死になって思い出そうとするのだけど、どうしても思い出せない。自分は忘れてはいけないことを忘れてしまっている。そのことだけははっきりと分かった。
昔、同じような暖かさをその右手に感じたことがあったはず。
その暖かさに救われるような思いを抱いたことがあったはず。
一歩一歩記憶の階段を下に降りていく。
すると、真尋の目の前に一つの光景が浮かび上がった。
そうだ・・・。あの日だ・・・。
あの日、真尋は母と二人で歩いていた。
あの夜の出来事が起こってから、数日しか経っていなかったはずだ。
夕食の買い物をするために、二人して近所のスーパーに買い物に出掛けた。その帰り道だった。それまでは真尋が母に付いて行って買い物に行くなんてことはなかったのだけど、あの日は真尋は母の隣を歩いていた。真尋から「一緒に買い物に行きたい」と言ったのか、それとも母の方から、「真尋も一緒に来る?」と誘ったのかは分からない。もしかしたら、何の言葉を交わすこともなく、真尋は黙って母の後を付いていっただけだったのかもしれない。そして母も、そんな真尋を黙って見ていただけだったのかもしれない。
夕暮れ時の住宅街は、夕日でオレンジ色に染まっていた。そのオレンジ色の道路を、母も、そして真尋もひたすら黙って歩き続けている。
突然、母は真尋の右手を握った。
真尋は驚いて、自分の右隣を歩く母の顔を見上げる。母にせよ、そして父にせよ、今まで手を繋いで歩いたことなんて無かったから、手を繋いで誰かと一緒に歩くということがどういうことかなんて、それまでの真尋には分からなかった。
母は黙ってただ目の前を見つめていた。そして黙って歩き続けていた。ただ、その母の手は力強くて、そして暖かかった。その暖かさを通じて、母の思いが自分の中に流れ込んでくるのを感じた。
“真尋・・・。本当に、ごめんね・・・”
母の、声にならない声を確かに聞いた気がした。