創作ノート

短編小説を書いています。

見知らぬ女(10)

 

なぜ……ここにいるの……。

なぜ……こっちを見ているの……。

眼の前で起こっている事態がうまく理解できない。

ただ、体は小刻みに震え始めていた。それは決して寒さのためだけではなかった。

菜摘はベランダの地面に落ちたシャツをそのままにして、部屋の中に飛び込むようにして戻る。窓を閉め、窓の鍵をかける。そして急いでカーテンを閉めた。あの白い影から自分に向けられた視線を一秒でも早く遮りたかった。そのままへたり込むようにして、窓に背をつけて床に座り込んだ。

菜摘の中に、ある一つの疑問が浮かび上がる。

彼女は……いつから、いたのだろう……。

この数日、菜摘の身に何も起きなかったことをいいことに、菜摘はいつもの日常を送っていた。だけど自分が気づかなかっただけで、あの白い影はずっとあそこに立っていたのだろうか。そして菜摘の住むこの五階の部屋の窓を見上げていたのだろうか。

そのことを想像するだけで、菜摘は深くて暗い恐怖の沼に沈み込んでいきそうだった。

どれくらいそこに座っていただろうか。

菜摘自身にも分からなかった。

体に力を入れてゆっくりと立ち上がる。冷たい床に座り続けていた菜摘の体はすっかり冷え切っていた。机の上の置き時計を見ると午後七時十分を指している。菜摘にとっては永遠とも思えるくらい長い時間だったが、実際には十分も経っていなかった。

その時間の中で、先ほど目にしたはずの白い影が本当に道路の上に立っていたのか、どこかで自信を無くしていた。道路にあの白い影が立っているのを見たのは一瞬の出来事だった。ここ数日、あの夜の公園での出来事以来、菜摘は張り詰めたような時間を過ごしている。そのため菜摘の目は、居もしない白い影の幻想を見ただけではないのか。見たと思い込んでいるだけではないのか。

もしかしたら、あの白い影が幻想だと思うことで、菜摘は何とか目の前の恐怖から逃れようとしていただけだったのかもしれない。

菜摘は窓の方に向き直り、右手をカーテンの端にかける。

まだ、あの白い影は立っているのか……。

そして、この部屋を見つめているのか……。

確かめようと思った。

このまま確かめることもせず一夜を明かすことは耐えられなかった。外に立っているかもしれないし、立っていないかもしれない。そのような曖昧な状況で過ごすということに、発狂しそうなくらいの怖さを感じた。立っているのか、立っていないのか、少なくともそれをはっきりさせたかった。

菜摘はゆっくりとカーテンを引いていく。

窓ガラスに、部屋の灯りを受けて菜摘自身の顔が映っている。その顔が邪魔して窓の外がよく見えない。菜摘は覚悟を決めて窓の鍵を開け、恐る恐る窓を開けた。

その窓の隙間から、先ほど白い影が立っていた道路の端が見える。

そこに、あの白い影はいなかった。

いつも見ていた、住宅街にある何の特徴もない道路が夜の闇の中に広がっていた。だけど先ほど白い影が立っていた空間は、その空間だけ誰かによって切り取られたかのように菜摘には真っ黒い虚無の空間に見えた。

菜摘はとりあえず白い影が居なくなっていることにホッとして、体が通るくらいの広さまで窓を開ける。そしてその隙間に自分の体を通して、先ほどベランダの地面に落としたシャツを拾ってすぐに部屋の中に戻った。ベランダの外はなるべく見ないようにした。部屋に戻ると窓を閉め、隙間が完全に隠れて外が絶対に見えないように、厳重にカーテンを閉めた。

部屋の中は静寂に包まれていた。

いつもは上の階で住人が歩く足音が聞こえたりもするのだけど、その日に限って上からも下からも物音一つ聞こえない。このまま無音の世界にいると、色々と怖いことを考えてしまいそうになる。

もし、今カーテンを閉めたその窓のすぐ外に、あの白い影が立っているとしたら……。

そのようなことをどうしても考えてしまう自分がそこにはいた。

テレビでもつけて、何か気を紛らわせよう。

普段菜摘は家でテレビを見ることも少なかったが、そのときは無性に誰かの声が聞きたかった。

机の片隅に置かれたリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。いくつかチャンネルを変えてみたが、NHKで午後七時のニュースを放映していた。

画面下のテロップには『駿河湾特産 サクラエビの漁始まる 漁港で初競り 静岡』と表示されている。映像では、防寒着を来て水色の帽子を被った男たちが青いケースに入ったサクラエビを前にして、威勢よく声を上げていた。

そのニュースが終わると、映像はスタジオに戻される。

男性キャスターが一瞬手元の原稿に視線を落とすと、すぐに視線を上げてカメラを見る。その顔は先ほどのニュースのときの穏やかな表情とは打って変わって、ひどく深刻そうな表情を貼り付けていた。

「次のニュースです」

画面の上にテロップの文字が浮かび上がる。

『東京都B区 十九歳女性死亡。警察は殺人事件も視野に捜査』

画面が、どこかのマンションの前に切り替わる。

闇に包まれたマンションの前には黄色い規制線のテープが貼られ、そのテープの内側では青い作業服を来た鑑識が慌ただしくマンションに出入りしていた。

黄色いテープの前には一人の若い女性記者が立っており、手元のボードを見ながら喋りだした。

「本日、午前十時頃に女性の部屋を訪れた知人男性が、部屋の浴槽の中でぐったりしている女性を発見し、救急に通報しました。女性は病院に運ばれましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました」

女性記者はそこで息継ぎをするように小さな間を空ける。そしてボードから目を離し、カメラを正面から見据えた。

「亡くなったのは、タケイユカリさん、十九歳です」

タケイ……ユカリ……。

まさか……そんなことって……。

きっと、同姓同名の別の誰かのことなんだ……。

だけど画面下には『死亡 武井有加里(十九)』という文字とともに、彼女の高校生時代のものらしい写真が映し出された。

それは紛れもなく、菜摘が高校生の時のクラスメートだった、あの武井有加里のものだった。

 

 

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