創作ノート

短編小説を書いています。

エクリプスリアルム(16)

 

有希たちが始めに案内されたのは、藤乃屋自慢の露天風呂だった。

その露天風呂は、露天風呂付き客室として客室に付属したものとなっている。藤乃屋ではそのような客室が10室あるということは鈴木から事前に聞いていた。

ある一室の前に着くと、鈴木はもったいをつけたように、

「ここです。心の準備は大丈夫ですか」

有希たちを振り返って焦らすように言う。よほど自信があるのだろう。

「山下さんたちを焦らしても仕方がないでしょう。鈴木さん」

佐々木が少し呆れたような口調で言った。

鈴木は、「それではどうぞ」と言って、ドアを開いた。

「ああ、素敵ですね」

有希の口から言葉が零れる。

ドアから入って正面には大きなガラス戸が見えた。部屋は12畳ほどもあるゆったりとした和室だった。鈴木が部屋の中に入って行き、その後ろについて行くように有希たちも中に入る。

いくつかある床の間のような場所には先鋭的でおしゃれな花瓶や壺が置かれていて、部屋に色合いを添えていた。和室の和の雰囲気と、さまざまな小物の現代的な雰囲気。その二つがうまく調和していて、年配の人の心にも、そして若者の心にも刺さるような部屋だと有希は感じた。

「こちらが露天風呂です」

鈴木が正面のガラス戸に近寄り、ロックを外して戸を開ける。

ガラス戸の外は木製のちょっとした机と椅子が置かれていて、テラスのようになっている。そのテラスは川に面していて、緑に囲まれて流れる川の流れがひどく涼しげだった。露天風呂は、そのテラスと同じように川に望む形で併設されていた。

鈴木と一緒に、有希と藤田もテラスに出る。

佐々木は部屋に残って、テラスに出ている三人を満足げに眺めていた。

「この川は、何という川ですか?」

有希が尋ねると、鈴木は、「H川と言います。H川は、多くの歌や文学作品にその名を残しているんですよ」と答えた。

確かにこのような景観を見せられたら、歌でも歌いたくもなるかもしれない。有希が一人そのようなことを考えていると、藤田が有希に近づいてきて、耳打ちするかのように、

「これは、絵になりますよ」

と言った。

有希たちがテラスから部屋に戻ると、藤田はさっそく撮影の準備を始める。撮影は、先程の建物の外観を撮影した時と同じように、露天風呂について紹介する佐々木を、藤田が撮影するという形で進められた。途中、佐々木が言葉を詰まらせて取り直しが入ってしまったのだけど、それ以外はトラブルもなく無事に終わった。

有希は腕時計で時間を確認する。

午後1時15分。

撮影は予定よりも前倒しで進んでいて順調だ。

手帳を開いて次の予定を確認する。そして次の撮影予定場所に向かおうと手帳から視線を上げると、部屋の隅で佐々木と鈴木が何やら小声で話しているのが見えた。佐々木の口調が少し詰問しているような感じに見える。何か問題でもあったのだろうか。

有希はその二人に静かに歩み寄り、

「すみません。何か、ありましたか?」

と声をかけた。

「いや、なに。鈴木にこのあとの撮影予定場所を聞いていたのですが、“緑翠の間”がその予定場所に入っていないようだったので、なぜ入れなかったのかと聞いていたのです」

「緑水の間、ですか?」

確かに“緑翠の間”という場所は、もともとの予定には入っていない場所だった。

撮影場所は始めに鈴木の方でいくつか候補を出してもらって、その中で鈴木と有希の間で擦り合わせていって決めていた。“緑翠の間”は、その始めの候補にも入っていなかったはずだ。

鈴木は有希に向かって、床に頭を擦り付けるかのようにして頭を下げる。

「すみません。すっかり失念していました。山下さん。大変申し訳ありませんが、追加で動画に入れてもらうことはできますでしょうか」

「はい、構いませんよ。この旅館の売りがどこなのか、この旅館で働いている方々が一番よく知っていると思いますので」

有希は実際にそのように考えていたし、このような事態に対応するために今回はカメラマンの藤田に有希も同行しているのだ。それに撮影は順調に進んでいて時間的にも余裕はある。有希に特に異論はなかった。

「ありがとうございます」

「ところで、緑翠の間、とはどういう部屋なのですか?」

「見ていただければわかります。この部屋の露天風呂のように一見の価値はありますよ」

佐々木は意味ありげに笑みを浮かべる。有希は本心から「それは楽しみですね」と言った。

藤田の撮影機材の片付けが終わると、有希たちは再び鈴木の案内で、その“緑翠の間”に向かう。階段で一つ上の階に登り、少し歩くと、“緑翠の間”という名札の取り付けられた一室の前に着いた。

「こちらです」

鈴木がドアを開ける。

そこは4畳くらいの小部屋となっていて、上り框の右側に靴箱があり、正面には襖が設けられている。その襖は閉じられていた。緑水の間に入る前の玄関部屋といったところだろうか。

鈴木が靴箱から、自分の分も含めて四人分のスリッパを並べる。そして上り框の上に上がり、襖の取手に右手をかけて、有希と藤田がその襖の前まで上がってくるのを待った。

「こちらが、緑翠の間です」

鈴木が勢いよく襖を開ける。

始めに有希の目に飛び込んできたのは、鮮やかな緑だった。

その緑翠の間は先ほどの露天風呂付き客室よりも広く、15畳ほどはありそうな部屋だった。畳敷の和室の上に椅子が二脚置かれている。

その部屋の壁の四面のうち二面が全面ガラス張りになっていて、そのガラスの向こう側に色鮮やかな緑の木々が見えていた。部屋の中にいるのに、まるで自然の只中にいるかのように感じられる部屋の作りになっていた。

有希は、その部屋の入り口で立ち止まる。

そして半ば呆然としながら、その部屋を見つめていた。

佐々木はそんな有希の様子を見て、その光景に感動したものと思い、「すごいでしょう」と言葉をかける。有希は返事もできずに、その場で立ち尽くしていた。

佐々木は自分の声が有希に聞こえなかったと思ったのか、今度は少し大きめな声で、

「どうですか、山下さん。緑翠の間、すごいでしょう」

と言った。

有希ははっとして佐々木の方を振り向き、そして少し引き攣ったような笑みを浮かべて「え、ああ、はい。すごいです」と答えた。その答えに佐々木は満足したように、鈴木と二人で部屋の中に入っていった。部屋の入り口には有希と藤田が取り残されていた。

依然として入り口に立ち尽くしている有希を見て、藤田が少し心配そうな顔をして、「少し、顔色が悪いようですが、大丈夫ですか」と小声で訊く。

「いえ、何でもないです」

少し震える声で有希は答えた。

この、目の前に広がる光景。

まるでデジャブでも見るかのように、それを以前、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。

でも、どこで見たのだろう……。

どうしても思い出せなかった。

自分は、忘れてはいけないことを忘れてしまっている……。

そんな焦りにも似た思いが、有希の中で湧き起こっていた。

「山下さん」

藤田に再び声をかけられる。

「あ、はい」

いけない。仕事に集中しなくては。

有希は気を取り直すように「本当にいい部屋ですね」と言って、部屋の中に入っていった。

 

 

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