創作ノート

短編小説を書いています。

見知らぬ女(13)

 

菜摘はしばらくベッドの上に横たわり、闇の中で目を光らせていた。

先ほどのチャイムは、自分が寝ぼけていて、夢の中のシーンを現実の世界の出来事のように勘違いしているだけなんだと必死に自分に言い聞かせていた。こんな時間に菜摘を訪れる人なんているわけがないし、深夜の二時にマンションの部屋のチャイムを鳴らすという行為に何かしら狂気じみたものを感じた。

部屋の中は静まり返り、自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。

それから、何も起こることはなく時間だけが流れた。自分でもどれくらいの時間が経ったのかわからない。ただ、自分に「さっきのはやはり夢での出来事なんだ」と言い聞かすことができるだけの長い時間が流れたのだと思った。

ピンポーン。

再び、部屋のチャイムが鳴らされる。

夢の出来事なんかではなかった。

再び鳴らされたそのチャイムの音に、これは現実なのだと冷徹に教えられたような気がした。

菜摘は恐る恐るベッドの上に上半身を持ち上げる。

部屋の隅に設けられたインターホンのモニター画面は、闇の中で青白く光っていた。だけど今の菜摘の位置からは離れていて、その画面の中までは見ることができない。

まるで、部屋のチャイムを押した何かに気配を気取られまいとするかのように、静かにベッドの上から両足を床におろし、部屋の電灯を点けた。先ほどまでは暗闇に包まれていた部屋が突然人工的な光に包まれる。

菜摘の住んでいるマンションには入口にオートロックの扉があるのだけど、その扉の横にはカメラが設置されていた。マンションを訪れた来訪者が扉横のインターホンに部屋番号を入力して『呼出』ボタンを押すと、その部屋のチャイムが鳴るようになっている。そしてそのカメラを通じて、各部屋に設けられたインターホンのモニター画面に扉横の映像が映され、来訪者を視認できるようになっていた。

インターホンを押したのは……誰だろう……。

菜摘は部屋の隅のインターホンに向かって、音を立てずに歩み寄る。

モニター画面にあの白い影が映っていたらどうしよう。そんな思いが菜摘の脳裏をよぎる。

だけど、そのモニター画面にマンション入口の映像なんて映ってはいなかった。青い画面に『呼出中』と表示されているだけだ。菜摘は一瞬何が起こっているのか分からずに混乱する。そしてすぐに、このインターホンについてのもう一つの仕様を思い出した。

マンション入口のオートロックの扉横で『呼出』ボタンを押すと、カメラを通して映像がモニター画面に映るのだけど、入口からマンションの中に入り、各部屋のドア横に設けられているインターホンのボタンを押した場合は外の映像は映らないのだ。各部屋のインターホンにはカメラは設けられておらず、その時は映像ではなく、青い背景に白地の『呼出中』という文字が表示されるだけだった。

つまり、今、この部屋のチャイムを鳴らした誰かは、この部屋のドアの横のインターホンを押したのだ。それは、その誰かが、今、菜摘が立っている位置から五メートルも離れていない所にあるドアを挟んで、外に立っていることを意味していた。

菜摘は引きつった顔で、視線をモニター画面から部屋のドアの方に向ける。部屋の明かりはそこまでは届かない。薄暗い闇の中に、そのドアは佇んでいた。

菜摘は必死になって、今の状況を整理する。

二つの可能性が考えられた。

一つは、同じマンションに住む別の部屋の住人が、菜摘の部屋のインターホンを押したという可能性。マンションの住人であればマンション入口のオートロックの扉は開けられるので、そのままマンションの中に入ってこの部屋の前のインターホンを押すことができる。

だけど大学入学とともにこのマンションで一人暮らしを始めて一年近く経つが、今まで別の部屋の住人がこの部屋のインターホンを押したことなんて一度もなかった。東京の賃貸マンションの人間関係はひどく希薄で、菜摘はこのマンションにどのような人が住んでいるのかも知らなかったし、交流も一切なかった。そもそも深夜二時にこの部屋の前まで来てインターホンを押すことなんて考えられなかった。

もう一つの可能性は、このマンションの部外者が何らかの方法でマンション入口のオートロックの扉を通り、この部屋の前までやってきたというものだ。

いずれにせよ、菜摘のすぐ近くに、ドアを挟んで誰かが立っている。そのことだけは確かなのだと思った。

菜摘は恐怖のあまり両手を強く握りしめながら、闇の中のドアをじっと凝視する。

インターホンには『通話ボタン』があり、そのボタンを押せば外と会話をすることはできるのだけど、とてもそのボタンを押す勇気は菜摘の胸の中には見つからなかった。この部屋に自分がいるということを、ドアの外に立つ誰かに伝わってしまうことを何より恐れた。

菜摘はしばらくその場で立ち尽くしていた。

どれくらい時間が経ったのかも分からない。体を少しでも動かせば、それが空気の振動として外に伝わっていくような気がして、指一本動かすことができない。永遠とも思える時間が過ぎ、菜摘はようやく足を動かした。

ゆっくりとドアに近づいていく。

大丈夫。ドアの鍵もチェーンも閉めている。それは寝る前に何度も確認した。ドアの外に立っている誰かは絶対にこの部屋の中には入れない。

ドアの外に誰が立っているのか。それを確かめようと思った。自分の身に何が起きているのか、自分は知らなければならない。そんな思いが菜摘を突き動かしていた。何が起こっているのか分からないという曖昧な状況がこの恐怖を生み出しているのだ。ドアの外には隣の部屋の住人が何か急用があって立っているだけかもしれない。それに、ドアの覗き穴から外を見るだけなら、自分がここにいるということを外に気取られることも無いはず。

菜摘は恐怖を紛らわせるため、必死に自分に言い聞かせる。

そしてドアの前に立った。

ドアの覗き穴は金属製の蓋で塞がれている。その蓋を上に持ち上げ、自分の目をそっとその覗き穴に近づけた。

 

 

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