なぜ、こんなところに……。
菜摘は大学進学の際に上京して来ており、それまでは福井に住んでいた。通っていた高校はその地元である福井にあり、東京からは遠く離れている。その高校の制服を着た女子生徒が深夜、東京のこんな公園のブランコの上に座っているわけがなかった。どう考えてもおかしかった。
菜摘は、今まで聞こえていたキーという音が聞こえなくなっていることに気付いた。ブランコを見ると、それまで微かに揺れていたそのブランコはいつの間にか静止していた。ブランコの上の白い影は足を地面に付けている。そして、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げた。長い髪は依然としてその顔を覆い隠していて、顔は見えない。それでもこちらに向けられている、その髪の裏側の二つの目を菜摘は感じた。
その時の菜摘は街灯と街灯のちょうど中間辺りに立っていて、二つの光の輪の間に作られた闇の中にいた。公園のブランコの上に座っている誰かに、自分の姿が見えるはずがない。そのような合理的な判断をする自分と同時に、
「あの二つの目は、確実に闇の中の私の姿を捉えている……」
確信にも似た思いを抱いている自分も存在していた。
菜摘の体に言いようのない恐怖が這い上ってくる。
真夜中という時間、公園のブランコに座っている、菜摘がかつて通っていた高校の制服とそっくりの制服を着た女子生徒。闇の中に立っている菜摘に向けられた彼女の視線。その状況は、菜摘の胸に鋭利な刃先のような恐怖を運んで来た。
菜摘は口にあてた両手に力を入れる。その両手の裏側で、歯がかちかちと震えている。
逃げなくては……。
恐怖で思考を停止しかけていた菜摘の頭に残ったのは、その一心だけだった。
菜摘の住むマンションは、その公園の前を通らないと行くことができない。
全速力で公園の前を駆け抜けるか……。
菜摘は無意識のうちに首を小さく横に振る。
公園の前を駆け抜けるということは、あの公園に向かって進むということでもある。あの白い影の前を通るということでもある。そのことを想像するだけでも恐ろしく、公園の前を駆け抜ける勇気がその時の菜摘には無かった。
菜摘は音を立てないように、一歩、二歩と後ずさる。
長い髪の裏側の二つの目は菜摘の姿を捉え続けているかのように、菜摘が後ろに下がるにつれて、髪に隠されたその顔もゆっくりと動いていく。このままだと、恐怖で足が凍りついてしまいそうだった。
菜摘は最後の勇気を振り絞って、白い影から視線を外して踵を返し、そして闇の中に駆け出した。
振り返ることはできなかった。振り返ってしまうと、自分のすぐ後ろに、公園にいたはずの白い影がいるような気がした。だけど、その白い影が追ってくることは無かった。
ぜえぜえと荒い息をさせながら、先程電車を降りたばかりの駅前にたどり着く。深夜一時を回っていて通りを歩く人は少なくなっていたが、それでも駅前の店はまだ開いているものもいくつかあり、闇の中に店内の光が漏れていた。
菜摘はその中の一つの二十四時間営業のネットカフェに入った。その店はこの場所に住むようになってから何度か来たことがある店で会員証も持っている。だけどこんな深夜に入るのは初めてだった。
受付に立っている若い男性に、会員証を渡す。
その男性は気だるそうな口調で、「お時間は何時間にしますか?」と尋ねてきた。今夜はこのネットカフェでやりすごそうと考えていたので、鍵付き完全個室の六時間パックを選択する。
男性から鍵を受け取り、三階の個室に向かう。そして自分の部屋番号の部屋に入ると、すぐに鍵を締めた。
途端に部屋の中は静寂に包まれた。
菜摘は部屋の隅にバッグを置き、壁に凭れるようにして座る。そして、先程見た光景について考えていた。
なぜ、深夜の公園に女子高生がブランコに座っていたのか。
なぜ、その女子高生は、菜摘がかつて通っていた高校の制服にそっくりな制服を着ていたのか。
いくら考えてみても、その先に答えを見つけ出すことができなかった。考えれば考えるほど分からなくなっていく。
「きっと、今夜、家出をしてきた女子高生が行く場所がなくて、あの公園のブランコに座っていたんだ……。私が通っていた制服にそっくりだったのは、ただたまたま似たような制服の高校がこの近くにあるだけなんだ……」
菜摘は自分に言い聞かせるように、小さな声で呟いていた。