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「菜摘、夕ご飯の支度ができたから、降りてきなさい」
階下から、母である瑞恵の声が聞こえた。
菜摘は「分かった」と答えて椅子から立ち上がる。部屋を出る時に電灯のスイッチを切って、階段を降りていった。
ダイニングテーブルには料理が湯気を立てて並んでいた。今日の夕食は肉じゃがとロールキャベツのようだ。両方ともに母の得意料理で、菜摘がまだ実家で暮らしていた頃は一週間に一度はそのどちらかが食卓に並んでいた。
肉じゃがは甘辛い味付けで、じゃがいもが煮崩れせずに味がしっかり染み込んでいる。隠し味に砂糖ではなく蜂蜜を使うのがポイントらしく、一人暮らしを始めてから菜摘も家で試しに作ってみたのだけど、なかなか実家で食べた肉じゃがの味にはなってくれなかった。ロールキャベツも、トマトベースのスープでじっくり煮込まれており、肉の旨味とキャベツの甘味が絶妙にマッチした一品だった。その両方とも、菜摘は大好きだった。
その懐かしい料理を久し振りに目にして、実家で暮らしていた日々が思い出されて思わず泣きそうになる。ここで泣いてしまうと母に心配をかけてしまうと思い、ぐっと涙をこらえる。
リビングの方に目をやると、ソファに座って、父の雄一が今日の新聞を読んでいた。これも、実家にいた頃は毎日のように見ていた光景だった。
「お父さんも、新聞を読んでいないで、こっちに来てください」
瑞恵の呼びかけに雄一は「うん、そうか」と一言言って、読んでいた新聞を畳んでテーブルの上に置く。雄一はソファを立ち上がり、ダイニングテーブルに二つずつ向かい合うように置かれた椅子の一つに座った。菜摘はその隣に座る。そこは二人の指定席になっていて、雄一の席と向かい合う席が、瑞恵の指定席だった。一人っ子だった菜摘はこの三人だけの食卓で、高校を卒業するまでずっと過ごしてきたのだ。一年振りの三人の食卓だったけど、その空間は菜摘のことを拒むことはなく、無言で受け入れてくれた。
「いただきます」
菜摘は小さな声で言って、箸を手に取る。すぐに眼の前の肉じゃがのじゃがいもをつまんで口に入れた。「うん。やっぱり、この味だ……」記憶の中の味と全く変わらない味が口の中に広がった。
菜摘は両親には「高校時代の友人のことで少し福井に戻る用事ができたから」とだけ伝えて実家に帰っていた。それ以外は特に何も言ってはいなかったのだけど、瑞恵も雄一も突然実家に帰省した娘に何か察するところでもあったのか、事情を詳しく尋ねてくることも無かった。
瑞恵も食卓の席につき、菜摘の高校時代の時のような三人だけの夕食が始まる。
高校の時などは、菜摘が高校であった面白い出来事などを瑞恵に話しては二人で笑い合ったりもしていたのだけど、佐々木真衣のことが頭の何処かに引っかかっていて、今はそのような気分にはなれなかった。菜摘は黙々と目の前の肉じゃがとロールキャベツに箸を伸ばし、食卓での会話はもっぱら瑞恵と雄一の間でなされていた。菜摘が家を出て一年近くにもなるのだから、今ではこのように二人だけの会話の中で日々の食卓の時間は流れているのかもしれない。あらためてそのようなことを思ったりもした。
「そういえば、今日、スーパーに買物に行った時に、菜摘のクラスメートだった川口さんの母親に偶然会ったのよ。ほら、菜摘、憶えていない? 川口さん」
瑞恵に突然話を振られて、菜摘は口の中に入っていたロールキャベツを飲み込み、「うん。憶えているけど」と答える。
川口和美は菜摘と高校一年のときに同じクラスだった子で、保護者会に出席したときに和美の母親と親しくなったという話は以前、瑞恵から聞いていた。菜摘は和美とはそれほど親しいという訳でもなかったのだけど、菜摘の家と和美の家はそれほど離れていないということもあって、スーパーやドラッグストアなどで時々和美の母親とばったり会って立ち話をしたという話は、以前にも瑞恵の口から聞いたことがあった。
「それが、川口さんの話だと、つい最近、菜摘の同級生だった子が東京で亡くなったそうじゃない」
菜摘の箸が止まる。
高校時代の懐かしい空間から、突然冷たい現実の世界に引き戻される。
「しかも不審死ということで、警察も今、死因を調べているっていうし、本当にびっくりしちゃった」
「そうなのか」雄一が少し顔をしかめる。
「そうなのよ。菜摘、あなたも東京で一人暮らしをしているんだから、十分気をつけないと駄目よ。……菜摘、どうしたの?」
「え?」
「右手……」
瑞恵の言葉で、菜摘は自分の右手に視線を送る。
自分でも気づかないうちに、箸を持つ右手が小刻みに震えていた。