創作ノート

短編小説を書いています。

閉じ込められた部屋(60)

 

 

白い看護服を着た一人の若い女性が待合室に小走りで歩いてきた。

「佐藤真尋さんのお母様はいらっしゃいますか?」

「はい、私です」

美和は右手を小さく上げて、立ち上がった。

少し遅れて真由美も立ち上がる。

「あの、私は、これで失礼します・・・」

「え?」

美和は、真由美を振り返る。

真尋を発見した時の様子を美和に話したことで自分の義務を果たしたというかのように、真由美は、

「私は、家に帰ろうと思います」

と言葉を重ねた。

待合室に掛けられた時計は午後23時を回っていた。

「もう遅い時間だけど、電車は大丈夫?」

「病院に、タクシーを呼んでもらおうと思います」

「そう・・・」

美和は両手で、真由美の右手を包むように握る。

真由美は驚いた表情で美和を見返した。

「真由美さん・・・。もう一度言うけど、真尋を助けてくれて本当にありがとうございます・・・。真尋にあなたのような友人がいて、本当に良かった・・・」

それは美和の本心からの言葉だった。

美和では真尋の心の支えになってあげることはできなかった。その隙を友人である真由美が埋めてくれていたのだとしたら、真尋にとって真由美の存在はかけがえのないものだったはず。真由美がいたからこそ、真尋は生きることができていたということもあったのかもしれない。

そのような思いが美和の心の中で湧き起こっていた。その思いを少しでもいいから、目の前の真由美に伝えたかった。

真由美は少しだけ悲しそうな微かな笑顔を顔に浮かべて、

「いえ・・・」

と首を横に振った。

 

その看護服の女性は、

「私は、看護師の高橋と言います」

と美和に名乗った。

「佐藤真尋さんはこちらで処置をしています。一緒に来てください」

看護師は来た時と同じように、小走りで待合室から歩き出した。美和は遅れないように同じように小走りで彼女の後をついて行った。

エレベーターで一緒に3階まで上がり、エレベーターのドアが開くと、

「こちらです」

と看護師は歩き出す。

美和はまた同じように、小走りで彼女の後を歩いた。

何回か通路を曲がって、一つの部屋の前に着いた。その部屋の入り口の上には、“集中治療室(ICU)”という掲示が掲げられていた。看護師がその前に立つと、自動でそのドアが左右に開く。美和は看護師と一緒にその中に入った。

その部屋は20畳もありそうなくらい広く、窓際に10個くらいのベッドが並んでいた。その全てのベッドに患者が寝ている。

看護師は部屋の一番隅のベッドの前に立った。そして、ベッドを右手で示しながら、

「こちらが、真尋さんです」

と美和に告げた。

ベッドには一人の若い女性が寝ていた。人工呼吸器を付けられ、そのベッドの横の計器ではその女性のバイタル情報が表示されている。

「真尋・・・」

久しぶりに見る真尋だった。

目を閉じた真尋の顔は、怖いくらいに青白かった。

 

 

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閉じ込められた部屋(59)

 

真由美は、真尋を発見したときの状況をぽつり、ぽつりと呟くように話した。

美和は途中で話を遮ることもなく、黙って真由美の話を聞いていた。そして真由美が話し終えると、真由美に向かって丁寧に頭を下げたあとに、

「真尋を助けていただき、ありがとうございました」

と口にした。真由美は少し困った表情を顔に浮かべ、

「いえ」

と小さく首を横に振った。

二人の間に沈黙が訪れた。

人気のない夜の病院の待合室で、もう言葉を発する者は誰もいなかった。美和は真由美と並んで、その待合室のソファーの上に座っていた。座りながら、真由美の話の中に出てきた真尋のことをずっと考えていた。どうしても気になる点があった。

「真尋・・・。精神科に通っていたんですか?」

「え?」

美和の言葉に、真由美が小さな声で訊き返した。

「先ほど、真尋が精神科に通っていて、睡眠薬を処方してもらっていたと・・・」

「・・・はい」

「真尋が精神科に通っているなんて、知らなかった・・・。真尋は、母親の私には、そんなことは一言も言わなかったから・・・」

「・・・そう、ですか」

「真尋は・・・、真尋は、なぜ精神科に通っていたのか、真由美さんには何か話しましたか?」

「・・・詳しくは聞いていません。ただ、原因はよくわからないけど時々強い不安に襲われる、夜もよく眠れない、と言っていました」

美和はその原因について、“あのこと”以外に思い当たるものはなかった。

もしかしたら、心の奥底に閉じ込めていたあの夜の記憶が、顔を覗かせ始めていたのだろうか。どんなに忘れようとしても、まるで亡霊のように真尋の後ろに付き纏い続けていたのではないのだろうか。

それで精神科に通い始めた真尋。

精神科に通っていることを大学の友人である真由美には話していたのだけど、母親である美和には話すことはなかった。そのことも美和の中で大きな引っ掛かりとなって残っていた。

母親に話してしまうと、母親が自分のことを心配してしまうと思ったのだろうか。心配をかけたくないと思ったのだろうか。

美和は微かに首を横に振る。

きっと、そうではない。

母親に助けを求めたところで、母親は自分を助けてはくれない。

そんな思いが真尋の心のどこかにあったのだと思った。

 

“どうして、私を助けてくれなかったの?”

“どうして、私を見殺しにしたの?“

 

あの夜、6歳の真尋が涙をぼろぼろとこぼしながら、母親である美和に対して叫ぶように口にした言葉を思い出していた。

 

 

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閉じ込められた部屋(58)

 

彼女の部屋はワンルームでした。

玄関から入って右手側にキッチンがあり、左手側に浴室のドアが見えました。そして玄関の正面には、ちょっとした廊下の向こうに、厚手のカーテンが引かれた窓が目に入りました。

その窓の厚手のカーテンが夕方の外界とこの部屋を完全に分断していて、そのカーテンの隙間から差し込む夕陽だけがその部屋に微かな光を投げかけていました。

「真尋、中に入るね」

私は薄暗い部屋の奥に一言声をかけてから、靴を脱ぎました。

そして部屋に上がると、ゆっくりと玄関前の廊下を進みました。

薄暗い中に、彼女の部屋が徐々に見えてきました。

6畳の部屋の中央にはマットが敷かれていて、その上にローテーブルと、そのローテーブルを挟むように座椅子とテレビ台が置かれていました。そしてローテーブルの奥に、ベッドが見えました。

白を基調にした落ち着いた部屋で、几帳面な彼女らしく、全てはきっちりと整えられていました。それは以前、私が彼女の部屋を訪れた時と同じでした。

だけど、その時とは違って、そのベッドの上には一人の女性が仰向けで横たわっていたのです。

私はそっと、そのベッドの横に歩み寄りました。

真尋さんでした。

カーテンの隙間からの微かな光を受けた彼女の顔は、ひどく穏やかな表情をして目を瞑っていました。その姿を見て、私は拍子抜けしました。

“何だ、眠っていたのか”

彼女の様子を見て、私はそう思ったのです。

私は穏やかに眠っている彼女を起こすのも気の毒だと思い、部屋を去ろうかと思いました。実際に体を反転させて、玄関に戻ろうとしました。

その時、ベッドの横に置かれていたローテーブルの上の、あるものが目に入ったのです。

部屋は薄暗くてはっきりとは見えなかったので、私は始めは、それが何なのか分かりませんでした。だけど、私の足はそこで一歩も動かすことができずに、凍りついていました。

それは開け放たれたままの空の薬ケースと、半分くらい水の入ったコップでした。

以前、彼女から、精神科に通っていて睡眠薬を処方してもらっているということは聞いていました。飲み忘れることがないように、薬は分別して薬ケースに全て入れるようにしている。そうも言っていました。一週間前に彼女の部屋を訪れた際にも部屋の隅に置かれていた薬ケースが目に入ったのですが、その時の薬ケースは薬で一杯でした。

その薬ケースが空になっていて、テーブルの上に置きっぱなしになっている。

それが何を意味するのか。

私は想像するのも怖かった。

ただ、何か大変なことがこの部屋で起こっている。

そのことだけは分かりました。

私はベッドに向き直りました。

「真尋?」

私の声に、彼女は全く反応しませんでした。

「ねえ、真尋・・・。寝ているだけだよね?」

肩に手をかけて体を揺すってみました。すると、ベッドの上に置かれていた彼女の右手は、力無くだらりとベッドの下に垂れ下がりました。

もうこれ以上私は、私自身を騙すことはできなかったのです。

私は震える手でポケットから自分のスマホを取り出し、119番に電話をかけました。

 

 

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閉じ込められた部屋(57)

 

エレベーターで11階に上がると、真尋さんの部屋の前に向かいました。

そして私はドアの前に立ち、ドアの横に設けられていたチャイムのボタンを押しました。

ピンポーンという音が、部屋の中で響いているのが聞こえました。

彼女がドアを開けて、

「あれ、真由美、どうしたの?」

そんな言葉とともに、私を不思議そうに見てくる姿を期待していました。ですが、インターフォンから声が聞こえてくることはなかったし、ドアの奥からは物音一つ聞こえてきませんでした。

もう一度チャイムを押しました。やはり中からは何の物音も聞こえてくることはありませんでした。

“もしかしたら、真尋は何か急用があって実家に帰っているのだろうか。だからこの部屋には誰もいないのではないのか。そして急いで家を出たから、今はスマホは電池切れで使えなくなってしまっているのではないのか”

そんな考えも、頭の片隅に過ぎりました。

だとしたらこのドアの向こうから、彼女の声が返ってこないのも当たり前でした。

もう一度押して返事が返ってこなければ、とりあえず自分の家に帰ろう。

そう思ってもう一度チャイムを押しました。

返事はありません。

私は諦めて、ドアの前を離れました。

だけど、ちょうどその時です。

“真由美・・・”

という、彼女の私を呼ぶ声が聞こえた気がしたのです。

それはただの気のせいだったのかもしれません。

私はそこで立ち止まり、ドアを振り返りました。依然としてそのドアは閉じられたままでした。だけど、私はその声が気になって気になって仕方がなかったのです。もしここで何もせずに帰ってしまうと、きっと後悔してしまう。そんな思いすら私の中には生まれていたのです。

私はドアの前に再び戻りました。今度はドアを直接ノックしながら、

「真尋。私だよ、真由美」

とドアの向こうに声をかけました。そして試しにドアノブを握って、それを回してみました。予想に反して鍵はかけられておらず、ドアノブはあっけなく回りました。

“いつも慎重で臆病な真尋にしては不用心だな”

そんな思いを押しやるようにドアに力を入れると、そのドアはキーという小さな音を立てて内側に開かれました。

私は恐る恐る頭をドアの内側に差し込みました。

カーテンが引かれているのか、ひどく薄暗い部屋でした。

「真尋?」

部屋の奥に声をかけてみたのですが、耳をすませていても中から物音一つ聞こえませんでした。

「真尋、中にいるの?」

私は体をドアの内側に差し込み、そして握っていたドアノブを手放しました。ドアは開いた時と同じように、キーという小さな音を立てて閉じていきました。

 

 

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閉じ込められた部屋(56)

 

その日は16時までびっしりと講義が入っていました。

その間、真尋さんから返信が来ていないかと何度もスマホを確認していました。だけど、彼女からの返信は一通も来ていなかったし、そもそも私が朝に送ったメッセージには、「未読」の表示がそのまま変わらず付いていました。

彼女から返事が来ないことについて午前中は特に重くは考えていなかったのですが、その頃には

“さすがにこれはおかしい”

と思い始めました。

“もしかして、部屋で倒れているのではないのか”

そう考えると、もう居ても立っても居られないような気持ちに襲われました。

その日は夕方からバトミントンサークルの練習が入っていたのですが、サークル仲間に、

「今日は急用ができたので練習を休みます」

と連絡をして、16時に講義が終わるとすぐに大学を後にしました。

真尋さんの住むマンションには、以前に何度か行ったことがあったので場所は覚えていました。

サークルの練習がない日などは、二人で大学を出て、私の部屋や彼女の部屋に一緒に行ってしばらくおしゃべりをしたり、部屋で映画を見たりすることがありました。

「今日、真尋の家に行っていい?」

そう私が尋ねると、いつも、彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべながら、

「うん、いいよ」

と私に言葉を返してくれました。

彼女の部屋も、一週間ほど前に行ったばかりでした。

彼女のマンションがある最寄駅を降り、小さな商店街を抜けるようにして歩いていくと、15分ほどで彼女が住むマンションが見えてきました。それは単身用のワンルームマンションで、12階建ての建物の11階に彼女は住んでいました。

マンションの入り口に設置されているインターフォンで彼女の部屋番号を入力して、呼び出しボタンを押しました。だけど、しばらく待っていてもそこから彼女の声が聞こえてくることはなかったし、オートロックの扉が開錠されることもありませんでした。

もう一度押してみました。

ですが、結果は同じでした。

実は、私が彼女と初めてこのマンションにやって来た時に、彼女はオートロックの暗証番号を私に教えてくれていました。

大学帰り、二人で彼女のマンションの前に立ち、

「誰にも言わないでね」

彼女はいたずらっぽく笑いながら、その番号を私に告げました。

「真由美だから教えるんだよ。私に何かあった時に、助けてもらうために」

「何かって?」

「わかんない」

そのときは、そんな他愛のない会話をしていたことを覚えています。

とりあえず、彼女の部屋の前まで行ってみよう。

私は彼女に教えてもらった番号を、目の前の機器に入力しました。ドアは何の抵抗もなく私の前で開かれました。

勝手にドアを開けることはいけないことなのだという思いは頭の片隅にはあったのですが、そのときの私は、彼女に対する心配の方が遥かに上回っていました。

あの日、彼女が言った「何か」が、今なのではないか。

そんな直感にも似た思いが、私の中にあったのです。

 

 

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