2025-01-01から1ヶ月間の記事一覧
菜摘はクローゼットの扉に引寄せられるように、そろりと右足を前に出す。 その扉の向こう側には何があるのか。 真衣の服があるだけなのか。真衣が着ていたコートが、ブラウスが、スカートがハンガーに掛けられてぶら下がっているだけなのか。そしてその中の…
菜摘は音も立てずに窓の前に歩み寄る。 窓の下には、これから本格的な夜を迎えようとして静まり返っている街並みが見えた。 その街角の一つに目が留まる。 この窓の内側に人影を見たときに、菜摘が立っていた街角だ。住宅の端に立てられている街灯の明かりを…
ドアノブを握り、右方向に回していく。 鍵がかけられているわけでもなく、そのドアノブは菜摘の右手の中で抵抗することもなくゆっくりと回っていった。心臓が今にも壊れるのではないかと思ってしまうくらい、速い鼓動を刻んでいる。自分の口から漏れる息の音…
10 薄暗い闇の中に、居間が見えてくる。 家から少し離れた場所に街灯が立っているのが、窓に引かれたレースのカーテンの向こう側にぼんやり見える。その薄明かりに照らされて、居間の中は仄暗く揺らめいていた。 その居間は、先ほど菜摘がいた応接室と同じ…
「ありがとうございます」 男に向かって小さく頭を下げ、菜摘はトイレの中に入る。そっとドアを閉めると、すぐに右耳をそのドアに近づけた。 トイレから遠ざかっていく一つの足音が小さく聞こえる。その足音はしばらくすると消え、代わりに、ドアを開いて、…
何かがおかしい……。 菜摘の頭の中にむくむくと疑念が頭をもたげていく。 この男は何かを隠している。 少なくとも今、この家の二階から物音が聞こえたはずなのにこの男は聞こえなかった振りをした。音が聞こえない素振りの裏側には、この男が何としても私に対…
「あの……差し支えなければ教えていただきたいのですが、真衣さんのお父様は、今、何をされているのでしょうか」 「……なぜ、そのようなことを聞くのですか?」 「え?」 「だって、姉に真衣のノートを渡すのに、真衣の父親のことなんて関係ないでしょう」 「…
「ノート……」 菜摘は非常にゆっくりとした動作で、ソファの右側に置いてあった自分のショルダーバッグを掴む。バッグを膝の上に乗せ、中を覗き込みながら右手を差し入れてノートを探すふりをした。バッグの中にはノートしか入っていない。その目は、バッグの…
「真衣も……」 男が発した言葉に、菜摘は思わず視線を上げる。 「久保田さんのような友達がいて、良かった……」 テーブルの向こう側から、その言葉とは裏腹に感情の読み取れない冷徹な細い目がじっと菜摘のことを見つめていた。菜摘はその目に射竦められながら…
9 「真衣は……とてもおとなしい子でした」 菜摘の口はまるで独立した人格を持ったかのように、本人の意志とは別に動き出す。 「とてもおとなしい子でしたが、クラスの皆から好かれていました」 そして、記憶の中の真衣の姿を元にして、嘘で塗り固められた架…
唯一の生きる糧だった真衣を失い、狂っていく真衣の母親。 その様が菜摘の目の前に一つのイメージとして鮮やかに浮かんでいた。男の話から作り出されたそのイメージは、不思議な現実感を伴って菜摘に迫ってくる。ついさっき写真で見たばかりの彼女の顔が恨め…
男が語る異様な世界と、その異様な世界に生きる異様な人たち。 静かな口調で語られるその世界は、菜摘がこれまで生きてきた世界とあまりにかけ離れていて、その世界をなかなか自分の中に受け入れることが出来なかった。まるで目の前の男が空想の世界の話をし…
部屋の中はしんと静まり返っている。 菜摘の心の中では様々な感情が波を打って流れていた。その渦の中に身を任せながら、それと同時に、これまで目にした白い影の姿を思い返していた。公園のブランコに座っていた白い影。マンションの前の街灯の下に立ってい…
「この写真立ての中の写真は……真衣さんと、真衣さんのお母様の写真でしょうか?」 「……そうです」 写真の中で並んでいる二人の女性。二人の女性のうちの一人は真衣であり、それならもう一人の方が真衣の母親なのだろう。だけど写真は小さく、菜摘の座ってい…
先ほど男が口にした話について、何か心に引っかかるものがあることに菜摘は気付いた。 何だろう。何かがおかしい。 だけどそれが何なのか、分からない。 菜摘はテーブルの上に右手を伸ばし、湯呑みを掴む。再びお茶を飲む振りをして時間を稼ぎながら、男の話…
「失礼します」 菜摘は目の前に差し出されたお茶に右手を伸ばし、湯呑みに軽く口をつける。 せっかくお茶を出してくれたのだから、少しでもいいから男に心を開いてもらおうと形の上だけでもお茶を飲むポーズを取る。だけど頭の中では、「どのように真衣の話…
8 「客が家に来ることなんて滅多になくて、こんなものしか無いですが……」 男が湯呑みに入れたお茶を、菜摘の前のテーブルの上に置く。自分の前には何も置くことはなく、お茶を乗せてきた小さなお盆を膝に抱えるようにして、男は菜摘の真正面に置かれたソフ…
いくら待っていても、やはりインターフォンからは何の応答もなかった。 留守だろうか。家には誰もいないのだろうか。 先ほど、この家の二階で見た人影。その人影を見たのは一瞬の出来事だった。本当に見たのかと誰かに改めて問い詰められたとしたら、菜摘に…