14 見知らぬ女
エピローグ 純は手に持っていた写真立てを机の上に戻す。 部屋の中は、自分の口から漏れる微かな呼吸音しか聞こえない。世界中の人たちが純一人を残してすべて死に絶えてしまったかのように、窓の外はしんと静まり返っていた。 夕食の前に居間のテレビで見た…
その日の夜、純は再び「はくたか」に乗って東京に戻ってきた。 真衣が着ていた制服と一冊のノートをリュックサックに入れ、真衣の部屋で芽生えた血塗られた計画を胸に抱きながら。 福井に出かける前と後とでは、純に外見上の違いは何もなかった。陽一と優子…
純はしばらくその表紙を眺めていた。 何の変哲もないノートだった。おそらく真衣が高校で使っていたノートなのだろう。純は引き出しをそのまま閉めようとする。だけどその時不意に、「なぜこのノートだけが、机の引き出しの中に入っているのか」ということが…
壊れやすいガラス細工を扱うかのように丁寧に、純はその写真立てを棚の一番上の段に戻す。 机の周りには他に見るべきものはなさそうだ。 純は後ろを振り返る。目に入るのは、部屋の壁に沿うように置かれた空っぽのベッドくらいだった。 いや……。 純の視線は…
しばらくして、真衣の叔父から純のもとに、ある連絡が来た。 それは真衣の叔父から陽一に電話越しで伝えられ、そして純の部屋のドア越しに陽一から純に伝えられた。その連絡とは、「真衣の遺品の中で、何か欲しいものがあれば何でも持っていってもらって構わ…
16 真衣の背中は、純の前から消えた。 その後の記憶は断片的にしか残っていない。まるで紙芝居のように、いくつかのイメージが純の頭の中に色褪せた映像として残っているだけだった。 気がついたら純は真衣の家の門前にいた。 自分がどのようにしてそこに…
真衣は突然、鉄柵に両手をかけて体を持ち上げた。 純が止める間もなかった。鉄柵を乗り越え、鉄柵の外に降り立つ。そしてそのままビルの屋上の縁に立った。 「何をやってるんだよ。危ないだろ」 純は驚いて、鉄柵を挟んでその向こう側に立つ真衣に言葉をかけ…
電車は無情にも福井駅に到着する。 純と真衣の二人は学生服を着た学生たちと一緒に電車を降りる。改札を抜けると、改札口の前で友だち同士と思しき二人の女子高生が笑顔を浮かべながら、「また明日」と言って手を振り合っているのが見えた。突然、真衣が足を…
純と真衣が向かったのは、Sワールドという名前の、福井の北側にある遊園地だった。 福井駅から電車でA駅に向かい、そこからタクシーに乗った。交通費は全て真衣が出した。純も払うと言ったのだけど、真衣は、「私が誘ったんだから、私が出す。それに私はあ…
「ありがとうございます」 純が男に小さく頭を下げると、男は無言で脇に寄り、純のためにドアの前のスペースを空けた。 「真衣、入るよ」 念のためドアの向こう側に声をかける。やはり返事はなかった。 銀色に鈍く光るドアノブを握る。ドアノブはひんやりと…
福井駅には十三時十五分に到着した。 ぱらぱらと新幹線から乗客が降りていく。その乗客に紛れこむように、純も新幹線を降りる。そのまま改札を抜けて、駅ビルの外に出た。外は雲一つなく晴れ渡っていて、どこまでも続く青い空の中に白い太陽が一人ぼっちで浮…
「嘘だと言われても、真衣の母親がそう言っているのだから信じるしかないだろ」 純をとりなすように陽一が言う。 それでも純は信じることは出来なかった。 何でもないのに、真衣が「純、助けて」なんてメッセージを送ってくるわけがない。真衣の身に何かが起…
15 静寂に包まれた部屋の中に純はいた。 机の上のデスクライトが、開かれたテキストの上を照らしている。自分の部屋で一人、数学の問題を解いていた。 陽一も優子も寝ているのか、家の中は怖いくらい静かだった。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。そ…
二人だけの写真を撮った後、再び公園の中の遊歩道を二人で歩いた。もう真衣も純も何も喋らなかった。純にはその沈黙が別に息苦しくはなかったし、気まずさを感じることも無かった。逆に、この静寂がどこか心地よかった。姉と弟が二人並んで歩いているという…
そしてその目は、鏡で見る自分の目に似ていた。 純が朝起きて洗面台の前に立った時、その鏡の向こう側にはこの時の真衣の目と同じような目をした少年が立っていて、そしてその空虚な目で純のことを見ていた。自分の中の得体の知れない虚無感が、ブラックホー…
「ねえ、あなたのこと、純って呼んでもいい?」 真衣がいたずらっぽい笑顔を浮かべながら純に尋ねる。 「いいよ。僕は何と呼べばいいのかな……。お姉ちゃん?」 「真衣、でいいよ。今さらお姉ちゃんと呼ばれても、私は姉らしいことなんて何一つしてこなかった…
14 N公園はY道路を挟んで北側と南側に別れている。 北側には、ワールドカップの公式練習場にも指定された球技場のほかに、野球場、テニスコートなどの運動施設があった。南側には野鳥観察園があり、一年を通じてさまざまな野鳥を観察できるようになって…
「この秘密によって、知らないうちに家族の中に歪みが生み出されてしまっていたのかもしれない……」 自分の中の黒い塊を吐き出すように、陽一は呟く。その声を聞いて、ダイニングテーブルの椅子に座っている優子の頭がうなだれるように小さく動くのが見えた。…
「何?」と純がドアの向こうに問いかけると、陽一は少しの間を空けて、「少し、純に話したいことがあるんだ」と言った。 どうせ、またありきたりな苦労話でも聞かされるのだろうと思いながらも、純はそのうんざりした思いを隠して、「うん、分かった」と答え…
夕食の席では、純は一言も喋らずにテーブルの上にあった食事を食べ続けていた。 いつもはそれでも両親と何かしらの会話を交わしながら食べていたので、純がその日に限って視線も上げずにただ黙々と食べている姿を見て、優子が気になったのか、「高校で何かあ…
コンコンとドアをノックする音が聞こえた。 「夕食の準備が出来たから、降りてきなさい」 ドアの向こう側から、陽一の声が聞こえる。 陽一は決して自分からこの部屋のドアを開けることはなかった。自分から息子の部屋のドアを開けないことが、息子のプライバ…
13 四角い檻のような部屋。 秋山純は部屋で一人、椅子に座っている。 この部屋にいるといつでも息が詰まりそうになる。だけど他に行く場所なんてないから、ずっとこの部屋の中にいた。この部屋に居続けているといつか、自分が呼吸するのを忘れてしまいそう…
立っていたのは真衣の母親でもなかったし、もちろん佐々木真衣でもなかった。 「あなたは……誰……」 菜摘と白い影、二人しかいない公園に、菜摘の掠れた言葉が虚しくこぼれる。男は何も答えない。黙って菜摘のことを見ている。 男、というよりも、少年、という…
「ねぇ、真衣なの……? 真衣なんでしょ……」 菜摘は一歩、二歩と公園の入口に近づいていく。 菜摘の目には、誰もいない夜の公園で一人ブランコの上に座っている白い影だけが映っていた。白い影だけを見つめながら、よろよろと公園の入口に向かって歩いていた。…
S駅の駅前にあるカフェを出た菜摘は、すぐに改札に向かい、自分の家の最寄り駅に繋がっている電車に乗った。多くの路線が接続してるS駅は夜になっても多くの人が行き交っており、電車の中は仕事帰りのサラリーマンや遊びから帰る若者たちで一杯だった。 最…
「久保田さん? どうかしたの?」 真理子の声が遠くで聞こえる。 菜摘の心は底なし沼に足をとられたまま、一歩も前に進めない。ただ、焦点の合わない目で、ベッドの端に座る真理子のことを見ていた。真理子は菜摘に興味を無くしたのか、再び熊のぬいぐるみと…
自分は何と言えばよかったのだろうか。 熊のぬいぐるみに向かって作り笑いを浮かべながら、「真衣、久しぶり。元気にしてた?」と言うべきだったのだろうか。 真理子の弟が、「もし、そのような妄想の世界の中にしか姉は自分が生きられる場所を見つけ出すこ…
12 真理子は傍らに立っている菜摘に構うことなく、「真衣」との会話を続けている。 「どうしたの?」 「……」 「うん。何かあった?」 「……」 「それ……先生には相談した?」 「……」 「……辛かったね、真衣」 「……」 「大丈夫。お母さんが一緒に考えるから、…
「佐々木さん……」 その背中にもう一度呼びかけてみる。 だけどやはり女性は返事をしなかったし、こちらを振り向くこともなかった。相変わらず、低く小さな声でぼそぼそと喋っている。ベッドに座るその女性と菜摘が立つ入口との間には少しの距離があり、彼女…
「患者への面会が終わりましたら、病室の中に呼び出しボタンがあるのでそれを押して下さい。看護スタッフが病室から病棟入口までご案内します」 「ありがとうございました」 菜摘は看護スタッフの女性に向かって、ここまで案内してくれたことも含めて丁寧に…