「真尋の手に触れても大丈夫ですか?」 「はい。大丈夫です。ぜひ、手を握ってあげてください」 看護師は事務的な口調で答える。 美和はベッドの上に投げ出された真尋の右手に触れる。そしてそのままその手を強く握った。真尋の右手は氷のように冷たかった。…
7 白い看護服を着た一人の若い女性が待合室に小走りで歩いてきた。 「佐藤真尋さんのお母様はいらっしゃいますか?」 「はい、私です」 美和は右手を小さく上げて、立ち上がった。 少し遅れて真由美も立ち上がる。 「あの、私は、これで失礼します・・・」 …
真由美は、真尋を発見したときの状況をぽつり、ぽつりと呟くように話した。 美和は途中で話を遮ることもなく、黙って真由美の話を聞いていた。そして真由美が話し終えると、真由美に向かって丁寧に頭を下げたあとに、 「真尋を助けていただき、ありがとうご…
彼女の部屋はワンルームでした。 玄関から入って右手側にキッチンがあり、左手側に浴室のドアが見えました。そして玄関の正面には、ちょっとした廊下の向こうに、厚手のカーテンが引かれた窓が目に入りました。 その窓の厚手のカーテンが夕方の外界とこの部…
エレベーターで11階に上がると、真尋さんの部屋の前に向かいました。 そして私はドアの前に立ち、ドアの横に設けられていたチャイムのボタンを押しました。 ピンポーンという音が、部屋の中で響いているのが聞こえました。 彼女がドアを開けて、 「あれ、…
その日は16時までびっしりと講義が入っていました。 その間、真尋さんから返信が来ていないかと何度もスマホを確認していました。だけど、彼女からの返信は一通も来ていなかったし、そもそも私が朝に送ったメッセージには、「未読」の表示がそのまま変わら…
次の日、つまり、今日です。 私は朝から大学の講義がありました。真尋さんも私と一緒にその講義をとっていました。彼女は私とは違って、朝が早かった。いつも私が来る前に席についていて、私が教室に入ると、 「真由美」 と私に向かって小さく手を振ってくれ…
美和は、以前、真尋の口から真由美という名の大学の友人がいるという話を聞いたことがあったことを思い出した。 真尋から学校の友人の話が出ることは珍しかったので、その名前を覚えていた。 「同じバトミントンサークルに入っている子で、真由美って子がい…
美和がN大学附属病院に着いたのは、夜22時半を回っていた。 12階建ての建物は、夜の街に立ちつくす巨人のように美和の前に立っていた。もう夜も遅くなっており、その窓の半分以上はすでに灯りが消されている。 その建物の入り口に「N大学附属病院」とい…
N大学附属病院から、美和に突然の連絡があったのは4月7日の夜9時過ぎだった。 美和は一人の夕食を済ませ、食器を洗って後片付けをしていた。 そのとき居間の机の上に置いていた携帯電話が突然震え出した。机に振動が伝わり、ガーガーと大きな音を立てる。…
美和は持ってきたバッグを開き、その中から一つの包みを取り出した。 昨日この病室を訪れた際に、この部屋の殺風景さがひどく気になっていた。 何か気分を変えてくれるようなものをこの部屋に置きたいと思った。ただし、真尋が入院しているN大学附属病院では…
6 佐藤美和は、建物の正面玄関から中に入ると、待合室を真っ直ぐに抜けて警備室に向かった。 平日午前中の待合室では、順番待ちをしている高齢者が数人、座席に座っていた。その座席の前では大型のモニターが設置されていて、それぞれの受付での順番待ちの…
水は徐々に、そして確実に真尋の体を沈めていく。 そして水が真尋の首のところまできた時に、真尋の中で一つの魔物が顔を覗かせ始めた。それは必死になって真尋自身が押さえつけていたものだった。その正体を見るのが怖くて怖くてたまらなくて、だから必死に…
真尋は木片を持った右手を開き、その木片を手放した。 もう真尋の中に、その木片を持ち上げる力は残っていなかった。 それは、その“バルブ”を回すことを諦めた瞬間だった。 木片は水の上に浮き上がり、水流に押し出されるように真尋から離れていく。その様子…
手に持ったキャンパスをドアノブに叩きつけているうちに、そのキャンパスの四辺を囲うように取り付けられていた木枠が外れかかってきた。それらは釘で固定されているわけではなく、接着剤のようなもので絵に固定されていた。 真尋はドアノブに絵を叩きつける…
何とかして、この水を止める方法は無いのか。 真尋は水の中で足を擦るようにして、一歩、一歩、その“放水口”に近づく。 そして改めて上を見上げて天井のパネルの奥を見つめた。そこに何か水を止める手段が隠されていないか、そこに望みをかける。 開いたパネ…
真尋はドアノブを握り、自分の体を引っ張り上げるようにして何とか立ち上がる。 服が水を含んでいて鉛のように重かった。その間も、天井から流れ落ちる水からは目を離すことはできなかった。その“放水口”から流れ落ちる水の勢いは、弱まることを知らなかった…
ぽた・・・。 「え?」 真尋は、自分の頬に何かが落ちてきたような感触を感じて、小さな声を挙げた。慌てて右手でその頬を触る。そして右手を目の前に持っていき、よく見ると、何かで濡れているかのように、部屋の電灯の光を反射して鈍く光っていた。水だろ…
突然開いた天井のパネルの奥に隠されていた、金属製の筒状の何か。 真尋は、過去に似たようなものを見た記憶があることに気づいた。 確か通っていた小学校の校舎の中だった。 必死になって思い出そうとする。 教室の前の廊下。 その廊下をまっすぐ行った先の…
その時だった。 ガタン。 突然、大きな音が部屋に響いた。 真尋はその音に驚き、一度大きく体を震わせる。 「何? 何の音?」 思わず声を挙げていた。 音は頭上から聞こえた気がした。視線を上に上げる。 天井は50センチ四方くらいの四角いパネルが敷き詰…
真尋は、自分の目の前の壁に描き殴られた“全て、お前がやったんだ”という文字を隠すように、手に持った絵を再び壁に掛け直した。これ以上、その文字を見ていられなかった。 部屋は、耳が痛いくらいの静寂に満たされていた。 その静寂の中で、真尋の心の中で…
真尋が“父が存在しなかった世界”に逃げ込んでいた中で、一方では母は、“夫が失踪した世界”を一人で息を潜めるようにして生きていた。 あの夜、母が手にして家を出たスーツケース。あのスーツケースをどこに捨ててきたのか、そして今どこにあるのか、真尋は知…
母はその捜索願の中で、父は前日の土曜日に出かけたまま帰ってこない、と記載した。そして、財布などの貴重品やパスポートなどを持ち出して父は家を出た、とも記載した。 そう記載すれば父はあたかも家出をしたかのように装うことができたし、大人の行方不明…
5 閉じ込められた部屋の中。 壁に乱暴に掻き殴られた“全て、お前がやったんだ”という血のように赤い文字を前にして、真尋は呆然と立ち尽くしていた。 真尋は全てを思い出していた。 そうだ・・・。 全て、私がやったんだ・・・。 あの夜・・・。 私は、自分…
母は真尋の両肩から手を離すと、すっと立ち上がった。 黙って寝室を出ていく。寝室の外で、何かを取り出しているような音が聞こえる。しばらくして、母は寝室に戻ってきた。その手にはスーツケースを持っていた。父が出張に行く際に時々使用していたものだ。…
「真尋、そんなところで何をしてるの?」 背後からの突然の声に、真尋は緩慢な動きで後ろを振り返る。寝室からの物音で目が覚めたのか、母が寝室の入り口に立っていた。 真尋は何も答えなかった。ただ暗闇の中で眼を光らせながら、母の姿を見つめている。 母…
真尋は黙って寝室の入り口に立った。 そして中の様子を伺う。 部屋の隅にベッドが置かれていて、その上に一人の男が横になっている。会社から帰った時に着ていたワイシャツ姿のまま、毛布だけを体の上にかけていた。ときどき体を掻くような素振りをしていた…
ビールを浴びるように飲んだ父は、そして真尋に“しつけ”をすることに疲れた父は、そのまま風呂に入ることもなく寝室に引っ込んでいった。その日は金曜日で、次の日は土曜日。父の仕事は休みだった。そのような日は、この日の夜のように父は風呂に入らずに眠…
父の動きが止まった。 真尋は感情を失った目で、自分の前に立っている父を見上げる。父は赤黒い顔に、どこか残忍な笑みすら浮かべていた。 「お前、いつか逃げられると思っているんだろ」 「・・・」 「誰かが、いつかお前のことを助けてくれると思っている…
父の真尋に対する“しつけ”を母が知った日から、その“しつけ”は家の中では秘密でもなんでもなくなった。 それまでは小心者の父は、母が家にいない時にしかその“しつけ”をしなかったのだけど、もはや家の中では母の視線を気にすることもなくなっていた。 少し…